パリに本部を置き、厳しい審査をクリアした世界62カ国、約580軒の高級ホテルや一流レストランが加盟する「ルレ・エ・シャトー」。
今回はフランスの名だたるレストランで修業を積み、その経験から革新の料理を生み出し続ける「La Becasse/ラ・ベカス」のオーナーシェフ、渋谷圭紀氏にお話を伺いました。
目 次
フランス料理を知らなかった少年がフランスへ渡るまで
―まずはフランス料理の道を志したきっかけがあれば教えてください。
高校3年生のとき、フランス人の画廊さんとたまたま知り合いになったんです。僕は食べ物ならお寿司屋さんでもラーメン屋さんでも良かったのですが、「親戚がフランスでホテルを経営しているから、そこで働いたらいいよ」という画廊さんの一言をきっかけに、ビザなどの必要性もわからないまま高校卒業後にフランスへ渡りました。
3カ月でフランス語はペラペラ、半年ずつで各セクションの仕事を回って、3年の修業で一人前になれると思っていましたが……実際は3カ月いても全然話せるようになれませんでしたね。
しかも当時の僕はフランス料理も食べたことがなくて、洋食と言えばエビフライとお皿に乗ったライスをイメージする程度。現地で通っていたフランス語学校では、卵白を混ぜたら固まることも知らなくて「そんなことも知らないでフランスに来たの?」と周りに驚かれましたね。
―フランス語学校に通いながら「ポール・ボキューズ」へ願書を送ったそうな……やはりボキューズ氏に憧れがあったのでしょうか。
憧れというか、そこしか知らなかったんです。「ポール・ボキューズ」が人の名前だということも知りませんでした。しかし今振り返ると、僕があるのはボキューズ氏のおかげです。街で出くわして食事をご馳走になったり、時にはご家族と食事をご一緒したり。労働証明書を書いて次の修業先を紹介してくれるなど、料理以外でもさまざまな場面でお世話になり、本当に感謝しています。
―そこからロブション氏の「ジャマン」や「アラン・シャペル」へ行かれるのですね。それぞれのシェフからはどのようなことを学ばれたのでしょうか。
ロブション氏は完璧主義で厳しい方でした。史上最短の3つ星獲得で張りつめていたのもあるかもしれませんが、怒鳴られることや料理の作り直しもしばしば。でも精神的にも仕事の段取りでも、とにかく鍛えられましたね。
ただ料理という意味ではシャペル氏のスタイルが好きなので、彼の影響は大きいです。「ジャマン」の次は斉須政雄シェフ(現「コート・ドール」オーナーシェフ)の後任として「ランブロワジー」で働く話も出ていましたが、最後の修業先は憧れの存在だった「アラン・シャペル」を選びました。シャペル氏は“料理界のダ・ヴィンチ”と言われ、その芸術性が高く評価されていましたが、背景にある精神の自由さと激しさは今も忘れられません。望めば思い通りに実力を伸ばせ、望まなければ停滞という環境が嬉しく、僕は働けるだけ働くことができました。
日本での料理経験がないまま、大阪に自身のお店をオープン
―数々の名店で10年の修業を経て、大阪に「ラ・ベカス」をオープンされます。日本で修業をすることなく、日本でお店をオープンされた経緯があれば教えてください。
シャペル氏の助手として、世界各国への出張に連れて行ってもらっていました。ある時、日本でロブション氏とシャペル氏のイベントがあったのですが、そこで出した料理がフランスの3つ星店に負けないくらい美味しいと思ったんです。それまで日本に魅力的な食材はないと聞いていましたが、決してそんなことはなく。日本でもレストランができるという自信を持てるきっかけとなりました。
今でこそパリには日本人がオーナーシェフのお店がたくさんありますが、あの頃はなくて。パリで物件を探したこともありましたが、次第に日本への想いも強くなって帰国を決めました。チャンスがあれば、パリでお店を開いていたかもしれません。
―「La Becasse/ラ・ベカス」という名前の由来とは?
「ベカス」は、渡り鳥の“ヤマシギ”のこと。クセはありますが、とても美味しくて“ジビエの王様”とも呼ばれています。好みが分かれて、一般受けするような味でないところがうちの店と似ていていいなと思って。それでシャペル氏とロブション氏がイベントで日本に来たときに相談したら、いい名前だと言っていただけたので「ラ・ベカス」に決めました。
―オーナーシェフとして、料理を作るうえで大切にされていることはありますか?
1度来てもらったお客様には、また来たいと思ってもらえるようにしたいです。そのためには、まずは自分が行きたいと思えるお店を作ること。安いわけではないけれど、それでも行きたいと思ってもらえるような努力をしたいです。
うちは流行の店でもないし、料理の見た目も普通に感じるかもしれない。でもその中にはたくさんのこだわりが詰まっています。誰もがわかるわけではなくて、食べ込んでいる人、作り込んでいる人にだけわかる世界でもいいと思うんです。
僕は文章が苦手なのでわかりませんが、たとえば小説の世界でも読み込んでいる人には「ここの表現がすごい」とかあると思うんです。料理も同じで、「美味しい」「まずい」はあるにせよ、その中にもっと深いものがある。ただの自己満足ではいけないけど、「ベカス」という食材と一緒で、僕の料理を「美味しい」と思ってもらえるお客様にしっかり届くような料理作りをしていきたいです。
ルレ・エ・シャトー加盟店としての取り組み
―渋谷シェフにとって、ルレ・エ・シャトーとはどのような存在ですか?
僕は1980年から10年間フランスにいましたが、修業したお店や憧れていたレストランのほとんどが加盟していたので、そういう憧れのお店が集まっているイメージですね。1990年に「ラ・ベカス」をオープンし、1993年に「オテル・ドゥ・ミクニ」の三國シェフからオファーをいただいたのがきっかけです。
ルレ・エ・シャトーでは世界からメンバーが集まって会合をするのですが、加盟して30年近いことを伝えると「お父さんの時代から?」と言われることもありました。若く見られるというのもありますが、加盟20年を超えると古株になるんです。僕が入ったときは憧れる年上シェフがたくさんいましたが、今は父から息子へ世代交代するタイミング。若い方も増えてきて、今と昔ではまた少しイメージが変わりましたね。
―先日ルレ・エ・シャトーのイベントでサステナブルフードに関しての宣言がありましたが、渋谷シェフが今後取り組まれる予定などがあれば教えてください。
世間では大きな船で捕った小さな魚が話題に上がりますが、うちの店で使うのは、スーパーに並ばないような小さな船で捕れるたった1匹の魚。今日しか仕入れられない1匹を調理するので、食材を雑にしない・捨てたりしないという基本的なことはずっと大事にしています。
また、ルレ・エ・シャトーではマグロを守るためにメニューから外すかどうかの議論も出ましたが、マグロは日本の文化ですし、なかなかそれも難しい。だから絶対やるではなくて、まずはできることからやっていこうと思っています。
―最後に、今後の目標や挑戦したいことがあれば教えてください。
挑戦というか、続けられるまで、倒れるまでこの店をやりたいと思います。ここの場所に移転したのも、だんだんと年を取っていく中で自分のできる範囲のお店を続けていくため。これより空間を小さくすることはできませんが、6テーブルを5テーブルに減らすことはできる。小さくても一店舗は続けて、ここにしかない店を作りたいです。
編集後記
フランスの名だたるシェフたちのもとで修業を重ね、独自の感性でお料理を作り上げる渋谷シェフ。驚くような出来事を飄々と話される姿に驚きつつも、フランスで10年の時を過ごした芯の強さをひしひしと感じました。
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渋谷圭紀 プロフィール
1961年12月22日生まれ。大阪府出身。
高校卒業後、1980年に渡仏。「ポール・ボキューズ」「ジョエル・ロブション」「アラン・シャペル」ほか各地で料理を学び帰国。1990年大阪の四ツ橋にて、「ラ・ベカス」をオープン。2005年高麗橋に移転、2014年に現在の平野町へ。毎日がシェフズテーブルの12席のレストランに変身。
1993年「ルレ・エ・シャトー」、1995年グランシェフの会「ラ・グランターブル・ドゥ・モンド」両協会に加盟。
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※こちらの記事は2023年04月20日更新時点での情報になります。最新の情報は一休ガイドページをご確認ください。