南青山、閑静な住宅街に佇む創業5年目の日本料理店「いち太」。オープン1年目から高い評価を受け、都内屈指の名店として幅広い支持を集めてきました。今回は、大将の佐藤太一氏を訪ね、日本料理への想いや今後の挑戦についてお話を伺いました。料理人としての原点や、今後の展望に迫ります。
歯車の一つにはなりたくない
― ご自身の、料理人としての原点についてお聞かせください。
調理の専門学校に通っていて、卒業したら中華の道に進みたいという思いがありました。在学中から、当時の「シェラトンホテル札幌」にあった中国料理店でアルバイトをして、卒業後には就職することとなりました。
しかし、ホテルの厨房は大きな組織でしたから、料理の技術を身に着けることが難しかったですね。今日使うエビをどれくらい発注すればよいのかといった、組織を動かす歯車の一つとして働きますから、 “ものを作る”という点では面白みを感じることが難しい環境でした。限界を感じて、3年ほどで退職を決意しました。
― 退職してからは、ニュージーランドに語学留学されていますね。
退職して気が付いたのですが、やはり日本にいると、友達や両親など常に周りに助けてくれる人がいるんです。甘えてはいけない、もっと自分を試せる場所にいかなくてはと考えるようになりました。
一人で海外に赴き、誰も自分を知らない環境の中で仲間を作る。自分がしっかり生きていくことができるかどうかを知りたかったんです。
結果として、自分の成長につながりましたし、日本料理に対する関心が深まるきっかけにもなりました。
一言でいうと、ニュージーランドでの生活を通じて、日本の食に対する意識の高さを実感することができたんです。
例えば、日本ではコンビニのお弁当一つとってみても、どの価格帯のものでも、ちゃんと美味しいですよね。国内にいる頃はそれが当たり前でしたが、海外ではそもそも食べられないということも珍しくありません。
日本はこんなにも高い意識を持ち、素晴らしい食文化もある。自分は料理人として、日本の食や文化を世界に発信するべきだと考え、日本料理の道を選びました。
― ニュージーランド留学中には、自分のお店を持とうという考えはあったのでしょうか。
何をするにしても、35歳の時には独立をするということだけは決めていたんです。
そこに、留学中の経験が合わさって、海外に、日本食を発信できる料理人としてお店を持ちたいと考えるに至った訳です。
2000年台初頭は、高級割烹といえばまだまだ閉鎖的なお店も多かった頃です。海外の方が、日本人のお客様と同じように、ストレスなく日本料理を楽しめる環境を作りたいという思いをずっと抱いていましたね。今でも、お店のコンセプトの根幹を成す考えとなっています。
― 留学を通して、「いち太」の原点が芽生えていたのですね。帰国後から独立まで、新宿の名店「大木戸 矢部」で修業時代を過ごされていますが、大変だったことも多かったのではないでしょうか。
若い頃でしたから、前向きな思いがとても強かったですね。周りが大変だと思うようなことも、一切苦にしませんでした。仕事中、つらい顔をしている同僚を見ると、この状況で笑えないようでは負けだなと思うことがあったくらいですから。
例えば、年末定番のおせち作りをとってみても、数週間ほとんど寝ていない中で、最後の3日間に徹夜をしなければならなくて。でも、だからこそ楽しく仕事をしないといけないと考え、仕事に臨んでいました。
ただ、入店して3年後に料理長となって、頑張れば結果がでるというわけではないことを学びましたね。料理での工夫を、お客様に納得してもらい、笑顔で帰っていただけるまでに一年を要したこともありました。
「チーム力」を育てていかなくてはならない
― その後、2014年に独立し、1年目から星を獲得するなど高い評価を受けていますね。
審査員が、自分のどこを見ていたのかは分かりませんが、当時は仕入れ原価に7割を掛けていたんです。だから、どれだけ売り上げが伸びても、本当に厳しかった。
でも、今やらないと、リピーターのお客様を逃してしまうと考えていたんです。一度来店した方に、「この店に通いたい!」と思っていただくためにできる唯一のことでもありました。
当時の自分の力では、お客様を納得させるパフォーマンスはできないと分かっていたんです。弱点を補うために、素材にとことんこだわるしか為す術がなかった、というのが本音です。
それを2年半くらい続けた頃、少しずつ「いち太」の名前も浸透してきました。ある日、懇意にしている「日本料理 晴山」の山本晴彦さんに原価の話をすると、「スタッフが幸せにならないから、原価に7割も掛けちゃだめだ」って言われたんです。結局、無理をしていると仕事がどんどん厳しくなって、スタッフも帰れずに疲弊して、お店そのものが良い方向にいかなくなってしまうと。
その話を受けて、「ああ、自分は足し算ばっかりやっていたんだ」って分かりました。
それからですね。引き算をしても、お客様に納得してもらえるものを提供していこうと考えるようになりました。
試行錯誤を重ねる中、原価を下げ、食材に頼らずしてリピートしてもらうためには、「お店としての総合力」=「チーム力」を育てていく必要があるのだという結論に至りました。
やっぱり、食材に頼っていた頃は、どこか自分一人でやっていたところがあったんです。だから、もっとスタッフのことを信頼して、チームの力で「いち太」の魅力をお客様に届けていくべきだと考えました。
今では、接客もチーム一丸となって行うようになりましたね。その一環ですが、うちでは、給与が毎年上がるようにしているんです。自分の若い時代にはなかったことですが、チーム力を育てるためにも必要なことだと考えています。
単身でジャカルタへ、ゲストシェフとして日本料理を披露
― 5年目を迎えるにあたっての挑戦など、今後の展望についてお聞かせください。
実は今年、豊洲市場がお盆休みになる間、ジャカルタにある「グランドハイアット ジャカルタ」で、ゲストシェフとして日本料理を披露する予定なんです。日本からは自分一人だけが赴き、現地のスタッフと一緒に、出汁取りから料理を作り上げていくことになっています。
チャレンジを決めたのは、かつて自分がニュージーランドへ赴いたのと同じ理由です。助けてくれる人がいない中、日本とはまったく異なる景色を前に、自分のパフォーマンスを試してみたいと考えました。今後の成長につなげていきたいですね。
お店については、法人化に向け、登記を進めている最中です。スタッフのことも考え、法人化を決心しました。
やっぱり、一緒にいてくれる仲間の輪を広げていきたいじゃないですか。飲食は、どうしても働く環境がグレーだと思われがちなので、仲間を広げるという目的を達成するためにも、しっかりと体制を整えていくつもりです。
― 素材を見極めるうえで大切にしていることは何でしょうか。
自分は、一人の仲買の方にのみ仕入れをお願いしています。理由は、その日最も良い食材である“一番手”を入手したいから。
市場に通い詰めるうちに分かったことなのですが、お金を多く払えば、良い食材を入手できるわけではありません。魚を買い付けてくれる仲買と、理解し合える密な関係を築くことで、初めて“一番手”を仕入れることができるのです。
信頼関係が出来上がっていますから、例え良くない魚が届いても、臨機応変に対処してもらえるので、安心して料理に専念できます。
良い食材を仕入れ、自分のお店が繁盛すれば、その仲買の方の評判も上がりますから、win-winの関係維持も可能です。
― お店の中だけでなく、仕入れ業者の方とも良いチームワークが形成されているのですね。
ありがとうございます。これからも“チームいち太”が一丸となって、料理を届けたいと思います。
素材へのこだわりは、名物の「十割そば」でも重視しています。茨城県常陸産の秋蕎麦を使用しているのですが、そば殻と外皮を取り除いた「甘皮」のものを真空パックに詰めて送ってもらい、店内にある特製の石臼で毎日挽きたてを提供しています。
味わいだけでなく、香りも楽しんでいただきたいですね。
素材を重んじ、素材を活かす技術を駆使する佐藤太一氏。今回のインタビューを通じ、料理に対するひたむきな姿勢だけでなく、スタッフや仕入れ先との絆を重んじる一面を知ることができました。夏に控えるジャカルタ遠征や、法人化を経て、チーム「いち太」のさらなる成長に期待したいですね。
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佐藤 太一 Taichi Satou
1980年、北海道生まれ。専門学校卒業後、札幌市内のホテルに入社し中華料理を担当し、その後ニュージーランドに留学。 滞在中、日本の食に対する意識の高さを実感し、料理人として、日本料理の奥深さや日本料理を楽しめる環境を作るべきだと考えるに至る。帰国後は新宿の【大木戸 矢部】などで修業。2014年に【いち太】を開業し、現在に至る。
※こちらの記事は2024年05月28日更新時点での情報になります。最新の情報は一休ガイドページをご確認ください。