「ミシュランガイド東京」では10年連続で星を獲得する実績を持つ、西麻布の名店「ラ・ボンバンス」。オーナーシェフである岡元信氏は、「日本料理 鴨川」や「紀尾井町 福田家」などの名店で修業し、日本料理をベースにしながらも、ジャンルの垣根を超えた新日本料理を提供しています。今回は、岡元氏に新日本料理という新しいジャンルのお店を開業された経緯から、今後の和食業界への思いなど多岐にわたって伺いました。
目 次
幼い頃から身近だった料理の道へと進み厳しい修業時代を経験
-岡元様が料理人を目指されたきっかけをお聞かせください。
実家がお寿司屋さんという、料理人の家系に生まれて、物心ついた頃から当たり前のようにお店で過ごしてきました。お店にはいつもお客さんとの会話があって、美味しいものが出てきたら喜んでくれる。飲食店って人と人との心の繋がりがある場所だなって小さいながらに思っていたんです。ただ元々は、高校を卒業した後はスポーツトレーナー、それもメンタルトレーナーになりたいと思っていました。ずっと野球をやっていたので、怪我をしたり、なかなか結果が出なくて悩んだりした時に、技術力を上げるためには心のサポートというか、指導者の言葉やチーム力、メンタルが本当に大事だなって感じていたんですよね。お医者さんにはなれないし、だったらメンタル的な面から母校をサポートして、甲子園に連れていきたいって思うようになっていました。ただそうこうしているうちに、周りのみんなの進学先や就職先が決まっていって、自分はなかなか進路が決まらない状況になって。飲食店が幼い頃から身近な存在だったことや、そこが心の繋がる温かい場所だということを改めて考えるようになり、料理人の道をスタートしましたね。
-そこから「日本料理 鴨川」「紀尾井町 福田家」などで修業されていると思うんですが、お寿司屋さんではなく日本料理の道に進まれたのは理由があるんですか?
父親を超えたかったからですね。田舎出身だったので、どこに行っても「○○寿司の息子さん」って呼ばれるんですよ。幼いながらに、自分の存在というか、自分の名前ってどこにいったんだろうって思うようになって、後々に自分自身の何かを作りたいっていう気持ちの原動力になっていきましたね。
-お父様から離れて自分自身の何かを作りたいという気持ちから、日本料理への修業に進まれたということですね。修業の中で特に印象に残っていること、そして現在「ラ・ボンバンス」に活かされていることを教えてください。
まず「日本料理 鴨川」に入った時は、衝撃的なことばっかりでしたね。野球をやっていたので、昔の体育会系や、縦社会みたいなのは、ある程度は馴染みがありましたけど。料理人の徒弟制度というのは、非常に独特で。親方に仕えて修業するというのは非常に厳しい世界でした。とにかく「何かあったら気を遣え」「包丁なんか持つな」「お前の仕事は包丁を持つことじゃなくて、気を遣うことだ」って言われていましたね。1日の中で「すいません」「失礼しました」「ありがとうございます」くらいしか喋ってなかったと思います(笑)。今みたいにスマホも電話もないですし、誰かと連絡を取る手段も手紙くらいしかなかったですからね。そんなに古い世代ではないんですけどね、今年49歳ですし(笑)。最初は本当にきつかったんですけど、あの時代があったからこそ今があるって本当に思いますね。
-非常に厳しい修業時代でしたね。「日本料理 鴨川」では何年間勤めていらっしゃったんですか?
約4年間ですね。
-最終的には、包丁を触らせてもらえたんですか?
ほとんど触ってないですね。精神的な修業でした。住み込みで、なぜか部屋が親方と一緒だったので。休みの日も部屋の掃除や親方の分の洗濯をして、休む暇もなかったですね。でも最初にそういう修業ができたのは、よかったなって思います。
和食とは非対称的な存在であるフレンチとの出会い
-その後はどちらにいかれたんですか?
当時築地にあった「東京新阪急ホテル」です。和食で入ったんですけど。ちょうどキッチンが和食と洋食が隣り合わせのスタイルだったんですよ。そうなると、洋食の様子が良く見えて。長いコック帽が見えたり、使っている言葉も「ポワソン」とかかっこよく聞こえたりして。洋食へ憧れて、良く遊びにいっていましたね。ある時、洋食のシェフが「フォン・ド・ヴォー」を作っている時に、ハケで汚れを取っているのが気になって「何をしてるんですか?」って聞いたんですよ。そしたら「旨味がついているから、それをスープに溶かしているんだ」って言っていて、びっくりしましたね。和食って灰汁(あく)とか、汚れは綺麗にするっていうのが基本の技法であったりするんです。そうではなく、こびり付いた旨味成分を液体に戻すっていう作業が、和食とは対照的だったんですけど、それにすごく共感できました。フォアグラとかピジョンとかを初めて食べたりして、最初は困惑しながらも、色々な素材に出会えましたね。
-岡元様にとっては、ホテルでの修業時代が転換期だったんですね。
フレンチに関しては、そうですね。ホテルには和食とフレンチの他に、鉄板焼きのお店もあって、鉄板焼きでも働かせていただきました。確か8席くらいのカウンターに焼き手が2名の体制だったんですけど、それがベストでしたね。ちょっと無理したら3組いけますけど、なんか料理が雑になっちゃうんですよね……。そういった自分自身で得た経験は「ラ・ボンバンス」を作る時、カウンターの席数を考える上でとっても参考になりましたね。
-ホテル時代に、和食、フレンチ、そして鉄板焼きを学ばれて、その後「紀尾井町 福田家」にいかれたのはどうしてでしょうか?
18歳で働きに出たんですけど。当時は若かったですし、バカだったので日本料理は4年くらいでマスターできるって思っていました。でもやればやるほど「あれ、全然できないぞ」って気づいて(苦笑)。そもそも最初の「日本料理 鴨川」での4年間は包丁すら握らせてもらえなかったですしね。でもその後ホテルで働いて、年はある程度重ねていたので、そうなるとハッタリで生きるしかないんですよ。そんな中25歳前後の時に無性に世の中が嫌になり、ちょっと疲れて東京から新潟に帰りました。というより、逃げ帰りました。地元では東京で修業した料理人が帰ってきたってちやほやされて。でも自分では何もできないってわかっているから、まるで裸の王様でしたね。料理本を読んだりして必死に食らいついていましたけど。そんな中バブルが崩壊して、経営に苦しんでいる父親の姿を見ながら、何十年後に自分が父親と同じような年齢になった時に、自分は父親を超えられる何かを身に着けられているのかなって思うようになったんですよ。何か自分が納得できるものをやらないといけないと思って東京に戻ることにしました。
自分自身の何かを身に着けるために再度東京へ
-そこで「紀尾井町 福田家」に入られたんですね。
そうですね。何で「紀尾井町 福田家」かというと、日本一の場所で働きたかったんですよ。2番ではダメで。自分で1番を知っていないとまた負けるって思ったんですよ。例えば高級食材の鯛、魯山人の器、川端康成の掛け軸とか、自分でそれを経験して自分の中に落とし込まないとって思ったんです。もちろん「吉兆」さんだったり、名店は色々ありますけど、自分にとっては「紀尾井町 福田家」が1番だと思って入りました。
-「紀尾井町 福田家」で特に印象的だったことはありますか?
「紀尾井町 福田家」は、料理をする環境がものすごく整えられていました。近くに住む場所がちゃんとあったり、調理器具もハケが壊れたらすぐに買ってくださったり、料理人がきちんと料理をするための環境作りが素晴らしかったです。洗い場に関しても、調理場より大きいんじゃないかってくらい設備がしっかりしていて、着替える場所が整理されていたり、ユニフォーム1つにしてもきっちり糊付けされたものが用意されたり。ありがたかったですね。ホテルとか大規模な施設だったら可能かもしれませんが、特に個人のお店でここまでしてくれるところはなかなかないと思いますよ。
-働く環境が非常に整ったお店だったんですね。そういったところはご自身のお店でも活かされていらっしゃるんですか?
2004年に開業した当初は、環境作りよりもどうやって社員の雇用を守っていくかという状況でしたが、良い心の状態じゃないと良いものは作れないということは「紀尾井町 福田家」で学んでいましたので、2010年に今の場所に移転してきてからは近くに住む場所を作って、環境作りを進めてきましたね。飲食は伝えるのが仕事です。もちろん1番はお客様に料理を伝えることなんですけど、伝えるっていう面でいうと、一緒に働いている後輩やスタッフに伝えるっていう作業の方が圧倒的に比重としては大きいんですよね。なので料理人が良い心の状態で働けて、スタッフや後輩に対してきちんと伝えるってことをやっていくと、お客様にもそれが料理を通して伝わるんですよね。
新しいジャンルを作りたいという思いからお店をオープン
-「ラ・ボンバンス」を開業されたきっかけと経緯をお聞かせください。
修業をしていく中で、料理のジャンルって「和食」「フレンチ」「イタリアン」「中華」と色々あるけど、それぞれの垣根を超えていくことが許されないことに、なんだかすごく腹が立ったんですよ。新しいことをしようとすると、認められないとか、すぐに消えちゃうような時代だったんですよね。だったら既存のジャンルの他に自分たちで新しいものを作ってやろうと思い、お店を開くことにしました。
-店名の由来、日本料理店にも関わらずフランス語の店名を付けた理由をお聞かせください。
開業当時の2000年前後は空前のレストランブームで、レストランの数がものすごく増えた時代だったんです。なので和食がベースのお店ではあるんですけど「岡元」とか普通の和食屋さんみたいな感じで名前を付けても、誰にも注目してもらえないだろうなって思いました。ホテルで働いている時に、フレンチのメニューで「ラ・ボンバンス(ご馳走)」っていう料理があって、その当時からいいなって思っていたんです。このレストランがひしめき合っている中で、いかに目立つ名前をつけるかと悩んでいた中、「ラ・ボンバンス」を店名にしました。今振り返っても「ラ・ボンバンス」って付けてよかったなって思いますね。最近また改めてこの店名が好きだなって思います。
既存概念に捉われない「ラ・ボンバンス」でいただくお料理とは
-謎解きのようなメニューはどういったきっかけで始められたんですか?
メニューって、素材がずらずら書いてあるだけだと、何が出てきたか思い出せないし、もう1回見たいって思わないなって思ったんです。映画でも、作品でも、何かを作るときって、誰かにもっと見て欲しいとか、何かしらの思いを込めて作るじゃないですか、だからせっかく作ったものが何も感じられないっていうのはそれを作ること自体、スタッフも可哀そうだなって思ったんですよ。そんな中ですね、携帯電話が普及するたいぶ前になりますけど、昔はポケベルを使っていました。ポケベルって数字で文字を打つんですけど、そのポケベルの癖で、ある時「牛フィレ肉」を「牛フィレ29」って間違って書いちゃったんですよ(笑)。その日は、仕方なくそのままメニューをお出ししたんですけど。お客さんがメニューをまじまじと見ていて、なんだかいつもより注目してくれたんですよね。「間違ってしまってすいません」なんて会話もありましたが、そこからですね、このスタイルが始まったのは。お客様も楽しんでくれるし、従業員も作るのが楽しいかなって。後は、毎日を金曜日にしようと思って、日付の部分を必ず金曜日にするようにしてます。昔、金曜日は花金と言って、みんな金曜日にワクワクしていたんですよね。「ラ・ボンバンス」にいる時はいつも金曜日のような気持ちで過ごして欲しい、そんな思いを込めています。
-色々と細部にまでこだわりが垣間見られますね。
-お料理を作る際はどういうところにこだわって作ってらっしゃるんですか?
料理は旬の食材を使って、人の細胞が欲しがる料理を作っていますね。今は流通が発達しているから何でも手に入るけれど、やっぱり夏はスイカやきゅうりが美味しいし、人の細胞が欲しているから、そういう食べ物が欲しくなるんですよね。日本料理ってすごく上手くできていて、冬はお鍋に柚子が香ったら美味しく感じるけど、夏は柚子よりカボスが欲しくなる。逆に冬は魚にカボスってなんだか少し寒い感じがします。それは日本人が持っているスーパー素晴らしい味覚なんだと思うんです。うちではお客様、人間、日本人が欲しいものを提供することを考えています。
-そこをベースにしてフレンチと合わせたりするのは、どのようなところからインスピレーションを受けているのでしょうか。
4つのことを基本に考えています。まずは「香り」、季節の香りは何かなと。その次は「触感」、その時期に欲する触感は何だろうとか。そして、その料理が1番美味しくなる「温度」と、最後は「見た目」ですね。器に盛った時のバランスを考えて、自分が今まで経験した、食べたものの中からその4つを組み合わせて作っていますね。
-岡元様は、色々なジャンルの料理に触れてきたから、その経験を基にジャンルの垣根を超えた組み合わせのお料理を作っていらっしゃるんですね。
見せかけで作ると嘘にしかならないんですよね。「紀尾井町 福田家」でやっていたものをコピーしてやったとしても偽物になっちゃうんですよ。コピーするんじゃなくて、何かをプラスアルファして自分のオリジナルに変えないと。オリジナリティがないところには人は集まってこないんですよね。
-学んできたものや経験してきたものは自分のものですもんね。
-お客様に感じて欲しい「ラ・ボンバンス」ならではの食体験とは何でしょうか。
好きな人を連れてきて欲しいですね。友達でも仕事関連でもいいですし、自分の好きな場所に自分の好きな人を連れてきて欲しいですね。よく、あのお店を教えたくないとかあると思うんですけど、それはその場所が特別だからですよね。「ラ・ボンバンス」もそういう大切な場所で、自分の大切な人を連れて行く場所って思ってもらえると嬉しいですね。
-やっぱり一貫して心が軸になっていらっしゃるんですね。
全てのスタッフがやりがいと責任感を持ち継続していける世界を作りたい
-岡元様は和食をどのように捉え、今後、世の中にどう発信していきたいとお考えでしょうか。
和食は世界無形文化遺産になりましたけど。正直それで何が変わったのかわからないなって。もっと世界に出ていってもいいんじゃないかなって思います。
お給料も少ないですし、拘束時間も長いですし、今の時代に合ってないのかなとかも時々思いますけど、若い人たちがかっこいいなって思ってくれるような職業にしていきたいですね。そう思ってもらえなくなったら、今やっている僕たちの責任なのかなって思います。魅力がないことをやっていると、やりたいって思ってもらえる職業ではなくなっちゃいますから。オーナーシェフが1番良いって思われていると思うんですけど、それはもう終わりなんじゃないかなって思ってますね。海外式というんですかね、きちんとしたスポンサー、パートナーがいて、そこにシェフがいるっていうスタイルでもいいんじゃないかなって思います。いくら料理人が頑張っても、「客単価×日数」でしか上がらないビジネスって生産性が少ないから、そこで夢を持てって言われても限界がありますよね。
-オーナーシェフがメインになっちゃうと、シェフご自身も休めなくなっちゃいそうですし、お客様もシェフいないんだって悲しがりそうです。
僕は全然お店にいないですよ。依存性ビジネスをしたくないので。なので、富山にも沖縄にもお店を作って、僕がいなくても回るビジネスにしています。その人がいなかったら店が回らない、他の人がスターになれないってちょっとしんどいですよね。だって、どんなにスターシェフがいたとしても、その裏には下処理をしてごみ捨てをしてくれる、お店を支えてくれている人たちがいる訳ですから。その子たちが責任感ややりがいを持って働ける場所を作ること、それがこれからやっていきたいことですね。僕は本当にそこが大事だと思うんですよ。だからレストランも本気でそういう環境を作らなくてはいけないと思っています。野球が強いチームって、ずっと強いですよね。スター選手だったり、名監督がやめたりしてしまったら弱くなるのかなって思っても、そうではないんですよね。強いチームってその意思をついでいくから、またみんな立ち上がって強くなっていくんですよね。企業もそうですけど、理念があるからこそみんなが1つのものに向かって頑張っていけますよね。レストランも同じように確たるものを作って、きちんとした基盤を持って継承していかないとダメだと思います。
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岡元 信氏 プロフィール
1973年7月生まれ、新潟県長岡市出身。高校卒業後、日本料理 鴨川(日比谷)、東京新阪急ホテル 日本料理 明石(築地)、同ホテル 鉄板焼き ロイン、紀尾井町 福田家(紀尾井町)で修業を重ね、2004年にオーナーシェフとして西麻布に「ラ・ボンバンス」を開業。