活気あるオープンキッチンで、枠にとらわれない和食を提供する『六雁(むつかり)』。和食の礎を継承し、華やかに彩られたお料理を、人は「スーパー割烹」と呼びます。今回は『六雁』総料理長の秋山能久氏に、日本料理を通した「文化の継承」について伺いました。
「もてなしの心」を精神論として学んだ修業時代
― 秋山シェフは『割烹すずき』で料理人としてのキャリアをスタートされ、その後『月心居』にて精進料理の道に進まれました。修業のお店はどのような思いで選ばれたのですか?
僕は18歳で茨城県・水戸から東京に出てきました。
『割烹すずき』では「10年は面倒見てやる」と言われたのですが、10年を過ぎても、独立して店を持つことが着地点なのか見えてこなかった。東京でお店をやるには、可能性があっても生半可な気持ちではできないので「海外を見てみよう」と思いました。
食が世界でどう大切にされ、食されているかを見たかった。NYのソーホーあたりのマーケットでは、お花や野菜、フルーツとかいろんなものが並べられていて。これってまた違う時代がくるんじゃないかなと、自分の中で震えるものがあったんです。
日本に帰ってきたときに、精進料理の『月心居』というお店を紹介してもらって。
10年間割烹料理屋でやってきたこともあって、一丁前気取りで入りましたが、見る世界、着地点、アプローチの仕方もすべてが違った。修行僧みたいな感じで、一からリセットしようという心構えで入りました。
月心寺の村瀬明道尼の下で修行をし、『月心居』を開いた棚橋俊夫は「相手があって料理は作るもんや、君がための精神を忘れるな」という、庵主様(村瀬明道尼)の教えを常に伝え続けていました。「いい食材があっても、人を思って作らなければ料理ではない。己に問うて、お客様に料理を作らせていただくという精神が根っこにないと、いい料理は作れない」ということを、一番学ばせてもらった修業時代でしたね。この経験は今でも僕の中に一つの核として残っています。亡き庵主様の思いを料理に込めて、提供し続けていきたいと思いますね。
― 『六雁』では、和食に対してどういう気持ちを込めていらっしゃるのですか?
和食とは、「和む食」でもありますよね。誰とどこで何を食べるのかは、すごく重要なこと。お客様の「料理を食べる経験」という人生の1ページには、きちっと僕たちが共にできればという思いがあります。1人5万円という単価の時代ですが、僕は金額というスタンスでは考えていないし、食べ終わって帰り道に美味しかったねって言ってもらえる料理でありたいと。
今は、お金を出せばいくらでも美味しいものを食べられる時代かもしれないけど、物を捨てないで、きちっとその場にあるもので、美味しい料理を作れるような料理人でありたいと常に思います。いい時間を共に過ごす、共にハッピーでいられる、そういう空間にしたいなと常に思いながら、僕は現場に立っているつもりです。
― お料理もそうですけど、スタッフに対して、シェフのお人柄がすごく表れる考え方ですね。
料理って自分の影なんで、どう磨きをかけていくかっていうのが大事。精神状態が、すべて1皿に出ちゃうんです。怖いもんですよ、料理って。ソースひとつ引くにも、盛り付ける動作すら変わってしまう。忙しいときでも“平常心”を保っていないと、自分が暴れだしてしまう瞬間があって。それをグッと抑えないと、荒れた料理として表れてしまう。
特にお寿司は、握り姿から表情まですべて映し出される“さらしの仕事”じゃないですか。それは僕らも同じで、刺身を切ってる姿、盛り付けてる姿、焼き物を焼いてる姿まで、全部オープンだからこそ緊張感を持って仕事しようねって話しています。全身全霊で、営業中の3~4時間は自分を奮い立たせる。と言いながらも、気の抜ける瞬間ってあるんですよね。そんなときは、みんなで声をかけあってやっていこうと。
― シェフの細やかな心遣いがお店全体に充満しているから、心地いい空間になっているんですね。
僕の好きな『心こそ 心迷わす 心なれ 心に心 心許すな』っていう言葉があるんです。すべては自分自身の心に問うてみて、それが言動なり行動なりに生きていくわけじゃないですか。お客様に対して今何ができるのかをみんなで話し合う、ブレストしながらやる。それで店は生きていく。常に生き生きとした職場であり、人間関係を築いていかなければいけないと思うんですよね。
料理人としての指針は、『心こそ 心迷わす 心なれ 心に心 心許すな』
― 秋山シェフの情熱はどこからくるのですか?
『ミッション・パッション・ハイテンション』ですよね。料理も好きだし、人も好きだし。日本料理を志して、1匹の鯵をおろせるようになったときの喜びを共有したいじゃないですか。その次、その次ってステップアップしていく。努力の積み重ねを自分にも常に言い聞かせながら、若い子たちにも伝えていきたいですね。実は若い子と交換日記をやってたことがあるんですよ。小さいノートを買って、1日1ページずつお互いに書いて。面倒くさいなって思う日だってあるし、相手だって1行しか書いてこないときもあります。でも、この1行にどんな思いを込めて書いてきたんだろうと、こっちも考えないといけない。そうやって、若い子たちと毎日向き合いながら仕事をしているつもりです。
― 大変ですけど、現代の師弟の在り方みたいですね。
17人いれば、17人ごとの感性があって当たり前だと思うんですよ。それを潰すつもりはないし、個性も大事にしたい。ただ、センスは生きていく中で積み上げられるもの。美しいものを美しいと言える人間でありたいよねと、常日頃から言っています。
スタッフとは、10年後20年後に「あのとき会ってよかったね」って笑いあえるような関係でいたいですね。だから、話すときはお互いの人生についても懇々と話しますよ。「真っ当な生き方をしようね」って。
― 秋山さんに師事される方はすごく幸せですね!
人の気持ちを汲んで慮ることって、すごく大事なことだと思うんですよ。キザなことを言いたくはないですけど、そうしないと身近な人に愛を提供することができないじゃないですか。だからここは、“学び合いの寺子屋”みたいなものですね。
日本人としての誇りも大事にしたいですよね。僕のコックコートの腕にある赤いラインは、「紅白で日の丸っぽいね」ってよく言われるんですが、実はそうじゃなくて。
マイケル・ジャクソンが右腕につけていた腕章は、世界平和を願っていたものだそうです。それと同じように、僕も食を通して豊かな時代でありたいって思う。僕らの仕事は命を預かる仕事で、包丁も右で持つし、それで殺生していくわけじゃないですか。自分たちはそれだけの責任を負っていると、常に自分に言い聞かせるために赤いラインを入れてるんです。かっこよく言えばね(笑)
自分たちが手と手を組んで、日の丸を作っていくことが大事なんで。小さくても出来上がってきてるから、もっと大きなものにしていきたい。そうすれば料理人の地位向上にも繋がって、料理人になりたいって子たちもたくさん出てくるんじゃないでしょうか。
日本料理の心を伝えるため、食材と向き合い、料理人と向き合い、お客様と向き合う。強い信念を持つ秋山氏は、間違いなく「和食の伝統を伝承する表現者」として、今後の日本料理をけん引する存在となることでしょう。
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秋山 能久 Yoshihisa Akiyama
1974年茨城県出身。「割烹すずき」、「月心居」を経て、2004年東京、銀座「六雁」に入店。同店総料理長としてフルオープンキッチンを舞台に、伝統的な日本料理に今のエッセンスを伝えるプレゼンテーションを展開している。
古典の日本料理を紐解き、郷土料理に込められたすばらしいメッセージを大切にし進化させ、ここ六雁より発信していく。 スペイン アリカンテの「世界最高美食会議」(2011年)日本代表にて講演。著書「再創造する郷土料理」(旭屋出版、2012年)。いばらき大使に就任(2014年)。東急プラザ銀座、数寄屋橋茶房の料理監修。世界料理学会 東京in豊洲、有田焼創業400年事「世界料理学会inARITA」のディレクターを務める。
※こちらの記事は2023年04月17日更新時点での情報になります。最新の情報は一休ガイドページをご確認ください。