1946年創業、関東を代表する鰻料理店として「日本橋 いづもや」は、真っ先に名前が挙がる名店です。看板を預かるのは、3代目となる岩本公宏氏。昭和の時代から多くのお客様に愛されてきた老舗ですが、長年お店の暖簾を守るためには、乗り越えなければならない事も少なくありませんでした。これまでの歴史を振り返りつつ、今後の展望など、様々なお話を岩本氏に伺いました。
先人からの教えをもとに、自らを信じて進む道を決める
―先代から「日本橋 いづもや」を引き継ぐ前まで、どのような状況だったのか教えてください。
高校生の頃に丁度バブル崩壊がありまして、ご存じのように多くの会社が姿を消しました。今でこそ商業施設が軒を連ね、観光客などで休日にも賑わいを見せる日本橋ですが、当時は多くの会社が立ち並ぶ、純然たる商業地域。当時、ここ日本橋周辺のお店は企業の方々によって支えられていました。しかしバブル崩壊によって接待などの利用が激減し、大変な経営状況になっていました。
家業には中学生の頃から携わっていて、大学生にもなると朝は父と築地市場に行き、昼過ぎまでそのままお店を手伝い、夕方から大学の夜間授業に通う日々。忙しい毎日でしたが、時間を作ってこの時に調理師免許も取得しました。
―大学で学んだ事は、飲食業に直結するような内容だったのでしょうか。
法学部の政治経済学科なので直結はしていませんでした。ですが、この時に大学で得た知識だけでなく、政治学のゼミでゼミ長をした経験や同好会で主将を務めた経験は、後にとても役に立ちました。
実は私、私立の一貫校に通っていたのですが、中学の時、学業面で良い成績を残すことができず、そのまま上に進学できませんでした。そのため、両親や学校の先生から勧められた高校を数校受験し合格しましたが、結果そこには行かず、運動に力を入れている学校を自分の意志で選び、受験して通うことにしました。
中学時代は勉強に身が入らず、不甲斐ない結果となってしまったため、高校では勉強に力を入れるように意識を改めました。その結果「勉強を教えてほしい」と級友に聞かれる事が増えました。そこで、いつでも質問に答えられるようにしたいと、それまでは親が心配して頼んでくれていた家庭教師に習っても身が入らなかった勉強に、進んで取り組むようになりました。
また、元来身体を動かすことは得意でしたので、様々なスポーツの場面でもそこそこ活躍できたのではないでしょうか。そんな経験もあってか「自分の人生は、自分で信じて決めた道を進んで行きたい」と、考えるようになりました。
修業先で聞いた突然の連絡と、新たな挑戦
―他店での修業を経て「日本橋 いづもや」に戻ってきた時の状況を教えてください。
大学卒業後に、横浜の老舗鰻店「割烹蒲焼 わかな」で修業を始めましたが、1年が過ぎたある日の帰り道、うちの名物女将であった祖母が、他界したという知らせが入りました。2代目である父が継ぎ、お店を切り盛りしていましたが、やはり先代女将のいなくなった穴は大きく、お店も大変な状況でした。しかし、さすがに1年では何も勉強できないということで、わがままを言い、それからもう1年修業させてもらい、2年経ったところで「日本橋 いづもや」へ戻る事となりました。
その後、父や職人たちと力を合わせてお店は安定してきましたが、そこに「日本橋三越本店」から出店依頼がありました。三越店の店長として、内装の打ち合わせやスタッフの採用など、すべて私が中心となって対応を進めました。
出店にあたって、都内近郊の百貨店を数十軒、約半年間にわたり毎日のように視察しました。百貨店へ出店するためのノウハウなどを何も持ち合わせていなかったので、ガラスショーケース内部の見せ方なども自分で考えました。
鰻の提供にあたっては、本店と同じように備長炭で調理を行い、設えはガラス張りにして、調理の様子がお客様に見えるようにして出店したいと決めていました。良い仕事をして、美味しい料理を作り上げている、その事をお客様に伝えたいと思っていたからです。
他店へ食べに行ったり「日本橋三越本店」への出店を契機にして、私は自分のお店を改めて客観的に見直す事ができました。“お客様にどう見られているか、何が喜ばれるのか、何かさらに良くできるポイントはないか”などという視点を持てるようになったのです。
ただ、たまに本店に戻って来て、この考えをあれやこれやと言っても、なかなか浸透しません。2代目である父を中心とした体制の中で、どうしたらみんなが動いてくれるだろうかと考えた結果、私からではなくて、父から号令をかけるように促すやり方に変えていきました。
例えば「お客様が接客を褒めてくださったけど、さらにこのようにできるんじゃないかな」と、父に話をします。父は「うーん、そうだな」と数日考えます。その後に息子に言われたからではなく、自分でも納得した上で、自分の思いとして職人や接客係に指示を伝える。すると「さすが社長、そうしましょう」となって、みんなも能動的に動いてくれるんですね。
まだ20代から30代の若造が「良い考えがあるから、今からそのやり方に変えてください」って言ったって、そうはすぐに物事は動きません。物事を動かすには人の心を動かさねばならないと感じた次第です。
鰻を「食べなくても困らない料理」にしたくない
―お話を伺っていると、どんな困難であっても乗り切ろうという、力強さを岩本さんから感じます。
祖母の影響は、大変大きいと思います。祖母は関東大震災の年に生まれ、戦争で大好きだった兄を亡くしました。戦後ようやく平和が訪れ、日本橋に鰻屋を開業したばかりの私の祖父と結婚して幸せを掴んだと思った矢先、祖父が病に倒れ夭逝。絶望の淵にいながらも、幼い子供を養いながらお店を切り盛りしていくことになりました。ですが、そんな逆境の中で、親戚や従業員、そして何よりお店にいらっしゃるお客様が、祖母を慕って本当によく助けてくださったそうなんです。
私は小さい頃からおばあちゃん子だったので、昔話を沢山聞かせてもらいました。苦労の多かった人生を強く生きてきたその姿は、今も強く胸に刻まれています。祖母が多くの人に慕われていた理由の一つでもあるのですが、よくしていただいたご恩を忘れない人でした。毎朝お仏壇に手を合わせながら、お世話になった方のお名前を一人一人読み上げる様子が印象的でしたね。
―人気メニューはどのようにして生まれたのか教えてください。
醤油のみで焼き上げた「生醤油焼き(きじょうゆやき)」は、蒸しすぎて串から外れ、壊れてしまって焼けない鰻を自分で食べようと、ご飯に乗せて醤油をかけて食べたのが始まりでした。「鰻料理には限界がないな」とも思った瞬間で、のちに本店で白焼きと生醤油焼きのコースを新しく開始するきっかけにもなりました。
また、それまで世になかった鰻の魚醤を開発。その鰻の魚醤を蒸した鰻につけて焼き上げた「いづも焼き」を世に送り出し、さらに古くは縄文時代にも食べられていた、川魚のように鰻を開かない状態で串焼きにした「蒲の穂焼き(がまのほやき)」を復活させました。
―後進の育成について、特に留意している事はありますか。
飲食業界に長く従事してくれる人材を、どう育成していくかという事を、ずっと考えています。今の時代は多様な価値観があり、私たちが若者だった時にはなかった新しいスタイルの仕事が沢山出てきています。特に若いうちは、飲食業界はどうしても“泥くさい”という印象を受ける部分を感じる事も少なくないでしょうから「自分には何か他の可能性があるのではないか」と感じ、他業種に移ってしまうケースがあるのです。
脚光を浴びている新しい仕事が増えている訳ですから、今までだったら飲食業界に参入していた人材が、他に流れていってしまっているのを実感します。
数年前から「日本橋 いづもや」では、入ったばかりの若い子達にもすべての仕事を経験させています。鰻を割き、串を打ち、焼くなど、一通りの工程を2~3年でほぼできるようにさせています。一通りの仕事を覚えたら、その後他の店に行かせるんです。どこも慢性的な人手不足ですので、行った先では、人手が足りないところに加えて何でもできる人材が入って来てくれたとなって、重宝されるようになります。
そのまま活躍できる経験を得ていくと、自信を持ち、期待に応えられる喜びを実感できますから、長く鰻料理の業界に残ってくれるようになる、と思っています。
もちろん、叱る時は叱りますし、いわゆる下働き的な事もしっかりやってもらいます。自分が上の立場になった時に、的確な指示ができるようになる必要がありますから、すべてセットで覚えてもらいます。私のお店で経験を積んだスタッフは誰しも、自分の技術でちゃんと食べていけるようになってほしい。それが目標ですね。「日本橋 いづもや」にずっと残ってもらえるかどうかに重きを置いてはいません。
―今後の抱負を聞かせてください。
鰻を「食べなくても困らない料理」にしたくないんです。好きな人が特定の場所にわざわざ食べに行くというのではなくて、いつまでも多くの人に愛される料理であるために、鰻料理を食べる機会が減ってしまわないようにしたいと常々思っています。
鰻があっても、鰻料理を提供できる職人がいなくなってしまったら、生産者などの関連業者も商売がし辛くなり、日常で鰻に接する機会がどんどん失われてしまう。それは絶対に避けなくてはなりません。これからもお客様に喜んでいただける美味しい鰻を、沢山ご提供していきたいと思います。
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岩本公宏 プロフィール
1975年10月2日、東京都中央区生まれ。大学卒業後、横浜にある老舗鰻店「わかな」で修業したのち、いづもや初代・祖母の他界をきっかけに「日本橋 いづもや」へ入店。
2003年から7年間「日本橋 いづもや 三越店」の店長を務める。現在は江戸通り沿いにある本館で腕を振るい、鰻文化の継承のため尽力している。