立川「Auberge TOKITO」石井義典氏に聞く、国内外での経験と感性で織り成す職人として独創的な日本料理に込める思い

フランス語で、“郷土料理を提供するレストランに重きを置いた宿泊施設”を意味するオーベルジュ。フランス発祥のオーベルジュが、今、日本でもちょっとしたブームを呼んでいます。2023年の春、西国立にオープンした「オーベルジュときと」のコンセプトは“料理人がもてなすオーベルジュ”。今回は、このプロジェクトを託された総合プロデューサーにして総料理長でもある石井義典さんに、グローバルでドラマティックな半生と「オーベルジュときと」に対する思いを伺いました。

もの作りが好きな幼少時代を経て、「京都吉兆 嵐山本店」へ

-まずは、石井さんが料理の道に進まれたきっかけについてお聞かせください。

Auberge TOKITOの石井義典氏

小さい頃からもの作りが好きで、目の前に鉛筆があれば絵を描き、粘土があれば捏ねて何か作ってそれを人にあげるのが好きでした。料理も同様で、自分が作ったものを美味しいって食べてもらうのが嬉しかったんです。

千葉県・野田の育ちで、近くの江戸川には小学3〜4年生の頃からよく釣りに行っていましたね。釣った魚を料理するのも、最初は母親任せでしたが、そのうち自分でやるようになって。小学校の高学年になる頃には、ほぼ自分で捌いて料理をしていました。それが楽しかったんです。

中学生になると、家庭の事情で僕が家族の料理番をすることになったんですが、いざやってみると、毎日の食事メニューを考えるのが思いのほか面白くて。でも、当時はまだ料理や釣りはあくまでも趣味で、それを生業にしようとは思っていませんでした。

-その後、料理人の道を選ばれたきっかけは?

高校時代は、釣りや料理と同じぐらいバイクと車も大好きで。車やバイクのデザインに優れているイタリアに憧れ、海外に行ってみたいと思う気持ちも大きかったですね。絵や木工も続けていきたいし……そんな様々な思いを抱えながら将来の進路について考えた結果、「料理」の一言が思い浮かんだんです。料理に携われば、もしかたら自分のやりたいこと全てに繋がっていくかもしれない。漠然と、そう思いました。

-海外進出を考えた時、日本料理を選ばれた理由は?

海外で仕事をするなら、物を作る人間として外国の人と対等の立場でいるために、何か日本の優れた技術を身につけなければと思いました。手に職をつけようと考えた時、日本料理がいいなと。

とは言っても、僕の周りに料理の分野に詳しい人はいないし……と考えていた時「日本一と言われる料亭の『吉兆』に行けば?」というバンド仲間のひと言が、僕の人生を変えました。その時は「料亭」という言葉さえ知らない若僧でしたが、彼の言葉に後押しされるように嵐山の「吉兆」に行こうと決めたんです。

その後は、プロの料理の世界を広く知るために、和洋中全てを垣間見れる「辻調理師専門学校」に入りました。この時、既に海外へ行くことを視野に入れていたので、学校の先生にもそれとなくアピールはしていましたね。「吉兆」の中でも京都を選んだのは、目の前に川が流れ、周りには山々があって、自然を間近に感じながら仕事ができるから。

在籍したのは8年8カ月で、後半の数年間は副料理長としてお仕事をさせていただきました。良い経験をさせてもらえたと思っています。特に、食材の本質を突き詰めることの大切さを学べたことや、一流の美術、工芸品に触れられたことは大きな収穫でした。

29歳で海外へ、スイス・ジュネーブ国連大使の公邸料理人として活躍

-「吉兆」を辞められた後、いよいよ石井さんの公邸料理人としての海外生活が始まるわけですね。

30歳になるまでには海外に飛び出したいと思っていたのですが、念願叶って29歳の時にジュネーブの国連大使の公邸料理人として赴任することができました。実は、海外に赴くにあたって、僕なりに条件がありました。まず「ヨーロッパであること」そして「大きな国の大使館であること」。せっかくなら、活躍の機会が多いであろう忙しいところに行きたかったんです。

公邸料理人というのは、言わば食の外交官。大使夫妻の食事はもとより、ゲストを招いた会食やパーティの料理を作るのが仕事。ジュネーブの国連大使館には、和食担当の僕とロイヤルパークホテルから来た洋食のシェフという、2人の料理人が在籍していました。

-当時、外国で初めて和食を作った時はいかがでしたか?

美しく整えられた日本庭園

最初は、何が何だかわからないので、とりあえず「吉兆」で習ったことをそのままコピーしようとするんですが、何一つとして美味しくできない。当たり前ですよね。水も違えば、魚の味も全く違うんですから。

スイスは内陸の国なので、海の魚がないんです。そこでまず始めたのは、レマン湖で魚を釣ること。とりあえず地元の漁師さんと親しくなって、湖の状況をよく知ることにしました。裏手が山脈だったので、山菜を採ったり、地元のレストランに出掛けて食材について教えてもらったりと、とにかく土地の食べ物について理解しようと無我夢中でした。

そんな毎日の中で、何より楽しかったのは朝市。チーズを売っているおじさんが「これ、食べてみぃ」って言いながら山で摘んできた面白い花をくれたりして。次第に食材についての知見も深まり、その土地でしか獲れない貴重な魚にも出会えました。「オンブルシュバリエ」という岩魚の一種で、現地では幻の魚と言われるほど珍重されている魚。繊細な身質と上品な味わいが、欧米では好まれているようです。

日本と海外、食材レベルの違いに苦悩しながらも自らの料理を打ち出す

-和食に魚は欠かせない食材ですから、当時はかなりご苦労されたのでは?

食房 エントランス

海外に行って痛感したのは、日本と向こうの魚が似て非なるものだということです。向こうでは、何かと「ソースが大切」というのですが、現地で毎日魚を食べているとその理由がとてもよくわかるんです。タイにしてもスズキにしても見た目は同じようでも全然違う。

一番違いがわかるのはイワシ。向こうのイワシは、日本のそれと違って強い香りがない。焼いてもあの独特の匂いが大人しいんです。よく言えば、あっさりしているんだけど、どこかもの足りない。以前、船上で釣りたてのカツオを、ストレスだけとった状態で血抜きもせずに食べたのですが、それが今までで一番美味しいカツオでした。血の味をそのままいただく。生命の味と言いますか、改めてヨーロッパでの魚の扱い方について考えさせられました。

ポルトガルでの活〆

ヨーロッパの魚好きの人たち、特にポルトガルは世界有数の魚食民族ですが、その漁師たちに「活け締め」を教える時、最も障壁になるのが血抜きに対する価値観の違いでした。

彼らにしてみたら、血を抜くなんて魚の生命を抜くのと同じ。「血の味も生命の味も抜けた魚なんて、味がなくなっちゃってるよ」って言うわけです。そういう食文化を持つ人たちに「そうじゃないんだよ」と言いながら活け締めを教えるのって、難しいですよ。彼らの言わんとすることも、僕としては痛いほどわかるし。それでも、イギリスやポルトガルでは活け締めは次第に広まっていきました。

食房 テーブル

ただ、スイスでは血抜きは定着しなかったですね。スイスではレマン湖で獲れる魚を主に使っていて、漁師たちは釣った魚を船に上げたら直ぐ家に持って帰って、内臓を全て取り除くんです。海と違って、湖から家までは5分ぐらいで着きますから、鮮度もそれほど落ちていない。僕はそれを急いで取りに行っていましたから、比較的フレッシュな状態で使うことができました。それに対して海の魚は空輸されたものが市場に並ぶので、日本のレベルを踏まえると話にならない。でも、それで文句を言っていたのでは、海外で料理は作れないと思います。

-そういった魚を美味しくするために、どういう工夫をされていたのですか?

素材を活かした塩焼きのような、いわゆる日本料理の型にはめて考えていたのでは、とても美味しい料理は作れない。素材を見て、「これをどう調理したら美味しく食べられるか」をまず考えます。脂が乗っていなければ、揚げたり、コンフィにして身をしっとりさせる。それでもまだもの足りないなら、ソースを合わせようかとなるわけです。

魚の骨やアラから旨味を抽出した、フレンチで言う「フュメ・ド・ポワソン」のような出汁はよく使いましたね。ハーブなどは使いませんでしたが、餡のような形でソースとして魚にかけるんです。そこに、醤油や味噌を用いることでフレンチとの境界線を敷く。それをベースにアーティチョークの苦味を加えたり。海外での経験がなければ、こういう発想には思い至らなかったかもしれませんね。

ニューヨークやロンドン、あらゆる場所を渡り歩く中で感じた思い

-今で言うイノベーティブ的な料理を、この時、既に手がけていらしたわけですね。その後、行かれたのはニューヨークですか?

スイスの国連大使がニューヨークに栄転になられたので、それに従う形で引き続き公邸料理人として務めました。ニューヨークは食材が豊富で何でも手に入りましたが、7年間いて感じたのは「何でもあるけれど、僕の求めるものは何もない場所」ということでした。

都会にありがちなんですが、食材にストーリー性がないんです。例えばチーズ。スイスなら、村々で個性のあるチーズを作っていて、作り手の思いが直接伝わってくる。食材一つひとつにエピソードがあって、それをお客様に共有することが楽しかった。でも、ニューヨークにはそれがない。魚も調味料も世界中から集まるため、ものだけは豊富にありましたがどれもピンとこなかったんです。何か違和感がありましたね。

-現地のレストラン「MORIMOTO」で腕を振るわれていた時、「UMU」のオファーを受けてロンドンに行かれたのですね。ニューヨークとはまた違う趣だったのでしょうか?

UMUにて

ロンドンの懐石料理店「UMU」の料理長に就いたのは2010年。それまで、5年間務めていた料理長が辞めることになって僕に声がかかったわけです。レバノン人のオーナーは大の親日家で、店のコンセプトは一貫して「懐石」。前任の方が京都の料理屋の息子さんだったこともあり、日本で作ってきた懐石料理をそのままコピーしてロンドンで再現されていたんですね。でも僕は、それはちょっと違うぞと思ったんです。

スズキの塩焼きに添えるからと、日本からはじかみを取り寄せたり、出汁の命だからと水も取り寄せる。でも、そうしたところで魚も野菜も日本とは全く違うわけですから、日本と同じように調理しても美味しいわけがない。お金だけかかってしまうと感じ、スイスでやっていたような調理方法に一からやり直しました。

-お客様の反応はいかがでしたか?

日本料理のコピーを食べたくていらしていたお客様は離れましたが、僕の料理を理解してくれるお客様は次第に増えていきましたね。

正直、お出ししていた料理が和食と言えるかはわかりませんが、僕は懐石って「目の前の方に喜んでもらうための料理」であって「京料理のコピー」だとは思っていないんです。雛祭りのような行事食にしても、無理に日本の習慣を現地の人たちに押しつけない。イギリスなら、女王陛下の誕生日をお祝いしながら日本流におもてなししようとか、その土地の文化を理解してちょっとでも相手に喜んでもらう。行き着くところ、それが懐石の心ではないかなと思っています。

-まさに、現在の「オーベルジュときと」の料理に反映されている考え方ですね。それは海外での経験から培われたものですか?

そうですね。「吉兆」時代は、型を覚えるのに一生懸命でした。スイスに行った時、最初は僕も京料理の型をコピーしようとしていたんですが、それが現地では受け入れられないことを思い知らされました。ですから、イギリスではできるだけ現地のものを使うようにしました。

当時、イギリスはEUに入っていたので、魚を輸入できない。最初は何もわからないまま、前の料理長が取引していた現地の魚屋から仕入れていたのですが、魚の状態が酷くて。原因を探るべく魚屋や市場に足を運んでみたところ、そこにある魚もすでに私の求めるクオリティーではないことがわかりました。

最後に向かったのは船。ここで驚いたのが、船から水揚げされた魚の状態。たいていの漁船は出航して2〜3日帰らないため、帰港した時には獲れたての魚と日が経った魚が入り混じっているんです。イギリスの漁船には氷を積む習慣もなく、もうこの時点で日本料理に使うのは難しい状態。そこで、僕たちの思うとおりに魚を処理してくれる漁師さんを募りました。

イギリス中を探してようやく出会ったのが、南西部コーンウォール地方の日帰り漁船。奥さんが日本人ということもあって魚の鮮度に対する理解もあり、大きな製氷器も持っていました。この漁師さんとの信頼関係を築くため、ロンドンから車で8時間かけて通いましたし、船にも一緒に乗りましたよ。活け締めの方法も伝えて、何とか鮮度の良い魚を扱えるようになりました。

-無理に日本の食材を取り寄せるのではなく、現地の食材に寄り添い、いかに美味しく調理してお客様に喜んでいただくか。これが石井シェフの原点なんですね。

そうですね。僕が海外でやりたかったのは、その土地ならではの日本料理です。イギリスならば、イギリスでしか食べられない日本料理を提供するべきだ、という思いで料理を作っていました。それが認められたのか、料理長に就いた年には、ミシュランの一つ星を、そして2015年には二つ星をいただきました。それまでの努力が報われた思いがして、素直に嬉しかったです。

2023年4月「無門庵」のストーリーに惹かれ「オーベルジュときと」へ

-石井シェフの様々な経験に「オーベルジュときと」の料理の背景が見えますね。必要に迫られて生まれた料理だからこそ、説得力があるんですね。そもそも「オーベルジュときと」に入ったきっかけは何だったのでしょうか?

イギリスに10年ほどいて、そろそろ日本に本拠地が欲しいなと思っていたところ、「吉兆」時代の後輩である大河原から「スケールの大きな話があるんだけど」と誘われたのが「オーベルジュときと」のプロジェクトでした。

海外で20年間暮らして一番感じたのは、日本にいた時には気が付かなかった日本の素晴らしさ。海外の人たちは、日本人が思っている以上に日本のことを認めている。だから、日本人は民族としてもっと誇りを持ってもいいんじゃないか。そんな思いが膨らんでいたんです。その思いと「オーベルジュときと」の前身である料亭「無門庵(むもんあん)」から、それを受け継いだ立飛(オーナー企業)のストーリーが、私の中で見事に絡みあったわけです。

-どういったストーリーなのでしょうか?

「無門庵」

戦時中、航空兵の宿泊施設でもあった「無門庵」は、彼らが旅立つ前に最後の晩餐をした場所だったそうです。彼らはきっと、大切な家族と未来の日本のことだけを思って、日本人としての誇りを持って戦地に向かったと思うんです。その場所を無くすことなく、受け継ぐ形で生まれた「オーベルジュときと」にシンパシーを感じました。

-2023年4月6日に始動した「オーベルジュときと」ですが、総合プロデューサー兼総料理長の石井シェフ以下、スタッフのキャリアが凄いですね。

シェフとスタッフの皆さま

一騎当千の強者が結集しました(笑)。総支配人兼料理長は、北海道洞爺湖サミットで各国首脳に料理を振る舞い、ミシュラン一つ星を獲得した京都「いと」の元料理長である大河原謙治。そしてもう1人の料理長、イタリアのミシュラン三つ星レストラン「リストランテ・ダ・ヴィットリオ」で研鑽を積んだ日山浩輝など、国内外で豊富な経験を持つ5人が集まりました。一国一城の主になってもおかしくない実力の持ち主ばかり。向かっている方向は皆一緒ですが、それぞれ個性が際立っていますね。

コンセプトでもある“アルティザン・キュイジーヌ”とは

-料理のコンセプトは“アルティザン・キュイジーヌ”ですが、石井シェフが表現したい「オーベルジュときと」ならではの料理とは、どのようなものでしょうか?

「自分の料理は何か」と言われると、実は答えに窮するんです。僕の場合、行きつく先は常にお客様に満足していただくこと。「そのために何をしたらいいか」というところから料理が生まれていくので。だから、優秀なスタッフたちの意見を取り入れながら、適材適所、人と人とを繋いでコースを組み立てていくわけです。

自宅での作陶

お客様が何を求めていらっしゃるかを絶えず考え、お客様目線で料理を作る。それが「職人=アルティザン・キュイジーヌ」ではないかと思っています。僕自身は「アーティスト」ではなく「アルティザン(職人)」でいたい。器も自分が作りたい形の器というより「この料理にはこんな器が食べやすいのでは」とか「お客様が驚くかな」というところから作ることもあるし、スタッフからリクエストされて作ることもあります。オープンに際しては、1,000個以上作りましたし今でも作り続けています。僕ほど作陶している料理人はいないと思いますよ。

-お客様ファーストの思いは、まさに懐石の心ですね。「オーベルジュときと」の料理は、イノベーティブとよく言われていますが、石井シェフ自身はどう思われていますか?

僕自身は、僕ほど日本料理を作っている人はいないと思っています。ただ、マグロにフォン・ド・ボーをあわせたり、生ハムで出汁を取ったりするのを見て「ここの料理は日本料理ではないよね」と言われることもよくあるし、その気持ちも理解できます。

では、何をもって懐石とするのかと言えば、その土地の旬の食材を美味しく仕上げてもてなすことだと思います。本来、懐石ってもっと自由だったはずなんです。天ぷらだって元を正せば、ポルトガルから入ってきた料理ですしね。

今、北海道で美味しいバターを作っているのですが、それを使ったとしても僕が作れば日本料理なんです。オープンに際しては、地方の生産者のところまで足を運び、規格外や活用方法が見出せずに破棄されている食材にも目を向けました。未利用魚を熟成させたり、カジカ節もその一つです。

日本の伝統を受け継ぐべく、新しい発信を続けていきたい

-今後の展望をお聞かせください。

「オーベルジュときと」の展望と私の人生は、完全にリンクしていますね。前にも述べましたが「日本の誇る精神性や文化を習得して、僕自身が直接国内外に紹介し続けること」。これが、学生の時に自分の人生を捧げようと決めたことでした。そのためのツールの主軸が料理であり、準備期間が嵐山の「吉兆」での修業時代、そして実践期間が海外での20年間だったわけで。ここ「オーベルジュときと」は、その土俵と言ってもいいでしょう。

今後のビジョンとしては、まず、生まれたばかりの「オーベルジュときと」を世界レベルに磨き上げていくことが一つ。同時に同じ目線で動ける日本の宝、生産者や技術者、新しい文化を貪欲に繋ぎ合わせて、立川からどんどん発信していきたいですね。と言っても、私個人では小さな力ですから、同じ志を持って一緒に発信していけるよう若いチームを鍛えていきたいと思っています。

料理人は素晴らしい職業ですから。誇りを持って仕事ができるよう、既に停滞し過ぎた日本料理の伝統を本当の意味で受け継ぐため、新しい潮流を発信し続けていくつもりです。

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石井義典氏 プロフィール

京都吉兆 嵐山本店で副料理長として実績を積んだ後、海外のキャリアを求め、ジュネーブ国連大使公邸料理人(スイス)やニューヨーク国連大使公邸料理人(米国)を務める。2010年にロンドンの懐石料理店UMU(ウム)に総料理長として迎えられ、ミシュラン一つ星を維持。
2015年には、欧州の日本料理店では初めてミシュラン二つ星に導き、以降2021年まで維持。 英国では活〆のパイオニアとしても広く知られ、情熱を注ぎ、粘り強くその手法を漁師達やレストラン関係者に広く伝授。英国ではかつてなかった高い鮮度を維持した鮮魚の調達を可能とし、業界に広く貢献。裏を返せば、素材への徹底したこだわりが突き動かしたもので、妥協を許さないその姿勢を物語る。
そのこだわりは器にもおよび、自ら作陶し、自らの料理に使用してきた。「オーベルジュときと」でも多数の器を手掛け、料理と器の巧みなコーディネーションで独自の世界観を表現する。

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公式HP:https://www.aubergetokito.com/

宿泊予約はこちら:https://www.ikyu.com/00003160/

【編集後記】
日本を代表する名店、嵐山「吉兆」で京料理の型をしっかり身につけながらも、それに固執することなく、生来の柔軟な発想と姿勢で、異国の地の環境に順応。その土地土地ならではの日本料理を模索し続けてきた石井義典シェフ。豊富な経験と料理の本質を常に問い続ける姿勢が印象的でした。

※こちらの記事は2024年10月21日更新時点での情報になります。最新の情報は一休ガイドページをご確認ください。

森脇 慶子

学生時代からの食べ歩きが昂じて食の世界に携わり、早や40年余り。
フードライターという言葉もない頃からこの道一筋。美味しいものへの探求心は、変わりません。
食は歴史、食は人をテーマに続けていければ、というのが目下の願い。「東京最高のレストラン」のメンバーとしても20余年のキャリアです。

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