創作料理の名店・大阪「カハラ」森義文氏に聞く、食材や器に対する信念と未来に描く夢への想いとは

大阪・北新地駅から歩いて5分ほどの場所にある、創作料理の名店「カハラ」。創業50年を超える店では、78歳のオーナーシェフ・森義文氏が今もなおキッチンに立ち、独自の世界観溢れる料理でゲストを魅了し続けています。今回は、数々の受賞経験もある森氏に、フードコラムニストの門上武司氏がインタビュー取材を実施。過去・現在・未来まで、様々なことについて語っていただきました。

父の影響から料理の道へ。フランス料理店や日本料理店などで研鑽を積む

―まずは、森さんが料理の世界に入られたきっかけを教えてください。

親父の影響ですかね。親父が家でマヨネーズを作っていて、小さい頃から買ったマヨネーズは食べたことがありませんでした。3人兄弟ですが、兄と弟は手仕事があまり好きではなく、親父一人でマヨネーズを作るのは難しいので、いつも僕が手伝いをしていたんです。

高校は進学校へ行き、その後は料理が好きだったので調理の専門学校に進みました。自分の高校から料理人が一人も出ていなかったことも関係しているかもしれませんが、進学校を出て料理人を目指す時代ではなかったんです。専門学校の卒業前、当時神戸に新しくできた「ニューポートホテル」に入りました。中学校や高校を出て、すぐに入社するような料理経験の少ない人が多かったので、部下ができたような気持ちでしたね。

ホテルには回転レストランがあり、そこのシェフに可愛がってもらっていたので、コンソメやロ―ストビーフ作りなどの手伝いをさせてもらって。シェフの中には東京から来た人もいたのですが、関西の料理人とは腕に格段の差があると感じていました。

それからは、結婚式なども手掛ける東京の社会保険会館のフランス料理店に入りました。今度は一番下っ端でしたから、一日中デミグラスソースをかき回したり、ジャガイモの皮をむいたりしていましたが、とても良い勉強になったと思います。そんな頃に、親父が「フランスに行ってはどうか」とアドバイスしてくれたんです。兄がフランスのホテルに勤めていたので、安心感はありましたね。

しかし、兄が帰国したことでその話がなくなってしまって。今度は、大阪・北新地の小さな料理店で働いて、1年間みっちり仕込まれました。包丁さばきからふぐの扱いまで、何でもやらせてもらえたので、良い経験ができましたね。

―日本の食材と調理法について、きちんと学ばれたのですね。

その頃のフレンチのシェフたちは、本国の料理を真似するのが精一杯。日本のものをきちんと見る余裕もなく、どうしたら本国と同じようにできるかを考えてばかりいたんです。ですから、料理の勉強という面では、北新地の店で学んだことが非常に大きかった。あとは食べ歩きもしていましたね。ある意味、フランスへ行かなくてよかったと思うところもあります。ずっとフレンチを続けていたら、今の姿はなかったかもしれません。

北新地の店のあとは、ミナミの鉄板焼き店「柿右衛門」に入りました。ステーキハウスの売り上げが好調で、もう一軒カウンターしゃぶしゃぶの店舗があったので、そこを任されることになって。50年以上前になりますが、誰もやっていない業態でしたので、すごく反響がありました。

そこで3年間頑張りましたが、その時期が一生の中で一番働いたと思います。他人の店で仕事をするということは、結果を出さなければなりませんし。当時は電卓もなかったので、そろばんで売り上げを計算して。月末で締めて、翌月の1日には売上金を本店へ持っていくわけですが、本店では売り上げが出るまでに2週間ぐらいかかっていたそうなので、社長にびっくりされましたね。それを認めていただき、えらく褒めてもらえて。

「特別に賞与を出す」と言われましたが、まだ赤字が残っていたので断りました。そのことを次の朝礼で社長が話したので、みんなから顰蹙を買いましたね。でも、それがバネになっていたのでしょう。「その代わり、儲かったらしっかりいただきますから」と言うと、社長は喜んでいました。

家族の応援を得ながら、現在も営む「カハラ」を創業

―そして、ようやく独立したのがこの「カハラ」ですね。

北新地で独立しようと思い、親が保証人になってくれたので、銀行から借り入れをしました。そしてちょうど建築会社に入っていた弟が、現場監督となって設計・施工をしてくれて。兄からはサービスについて、色々とアドバイスしてもらいました。

内装は最初にしっかりと施工してくれたので、これまでの約50年間で、カウンターを1回塗り替えたのと、椅子を1回取り替えただけですね。ベースの部分には全く触っていません。

―「カハラ」という名前の由来は?

兄がハワイの有名なホテル「カハラ」の総支配人と親しかったんです。その頃の日本は、まだハワイのホテルに泊まったことのある人なんていない時代。語呂も良いですし、ロゴマークの入ったグラスや灰皿をたくさん送ってきてくれたので、そのまま使うことにしました。ありがたかったですね。今となっては考えられないことです。

―独立当初はステーキがメイン。洋風懐石スタイルは、いつ頃から始めたのですか。

ごく普通のステーキハウスで、ミナミの店でやっていたことをここでも同じようにやり始めました。アワビやエビも焼いていて、肉の刺身とたたき、スープと前菜がちょっと、というくらいの店。焼き手が2~3人いて、カウンターがキッチンみたいなものでしたね。6年目ぐらいから少しずつ前菜を増やし、品数が増えていくごとに少しずつ肉を減らしていきました。その頃からもう「マッシュルームの焼き飯」を出していたんですが、それがすごく人気だったんです。

―「ステーキミルフィーユ」が出来上がったのは、いつ頃ですか。

20年ぐらい前ですね。何か他に面白いものを思いついたら変えようと思いながら、ずっとミルフィーユですけど。

―実は何度か家で作ってみました。作ってみたくなる料理ですね。

簡単ですからね。だいぶ真似されましたけど、単純なのがまた良いですよね。あんまりややこしいことをしない方が、ここで食べなくても皆が真似できるわけですよ。僕は、何か感動を与えるならシンプルな方が良い。ややこしいことをしなくても、料理の方が自然と語りかけてくれるのです。

食材や器に深くこだわり、新しいものを積極的に取り入れる

―一斉スタートなど、今では料理界で常識となっていることを随分早くから始められました。食材探しについても、森さんは相当早かったですね。

確かに当時はなかったですね。その影響か、好きなものを食べられないことも多くなりました。みんなおまかせですから、寿司屋さんなどでは、ちょっと寂しいなと思う時もあります。

―同感です。カウンターの醍醐味は、料理人とのやりとりみたいなところがありますから。食材にこだわるようになったきっかけは?

やはりモロヘイヤでしょうか。三重県の農家の方が、エジプトから種を持って帰ってきたんです。変わった野菜ですから、どうしたらいいかと相談に来られて。色々な調理法を提案していたら、あっという間に全国的に広まりました。ヤーコンも早かったですね。金時草は、金沢の近江町市場で30年ぐらい前に見つけました。

当時は金沢の料亭にもよく足を運んでいましたが、店では全く出てこない食材です。聞いてみると「家で食べる野菜ですから、店では使えません」と説明されて。「観光地なんだから、地元の野菜を使った方が喜ばれますよ」と言いました。すると、少しずつ皆さんが使うようになっていったので、だいぶ貢献できたんじゃないかなと。

―金沢といえば、金時草。やはり色々アンテナを張っていないといけませんね。

インターネットができないので、テレビは面白いと思ってよく見ています。NHKは支局が全国にありますから、各地の映像が出てくるんです。「面白い野菜やな」と思って、市役所とか村役場に電話をかけると、そこからの紹介ですぐに農家の方が野菜を送ってくれます。反対に、生産者の方から相談されることもありますね。山梨の青茄子のように、見かけはさほどでもないですが、食べたらすごく美味しいものが結構ありますね。

―森さんは、器や塗りについてもプロフェッショナルですよね。

コンソメは普通、金属のスプーンで飲みますが、漆のお椀に直接口をつけて飲むと全く違う味わいを感じます。だからうちの店では、金属のスプーンではなく漆のスプーンを使っているんです。そういったことがきっかけで、色々な器を作って、塗りで仕上げてきました。

―漆については、木だけでなく色々なものを作っていますね。

20年ほど前にニューヨークでやった個展では、紙の器のみを出したんです。使い捨ての紙皿ですが、シリーズになっていて色々な形があります。その使い終わったあとの皿をお客さんにお見せすると、皆さんびっくりされますね。塗りは疲れることもないですし、ストレス解消にもなりますから、休みの日は6時間ぐらいずっとやっています。今は新しく、肉を食べるスプーンやフォーク類を塗っているのですが、今後もやれるだけやっていきたいです。

数々のイベントを手掛けて人と人のつながりを広げていく

―現在、食のイベントは多彩になりましたが、森さんはかなり早くからイベントを仕掛けてこられましたね。

早かったですね、これまでに塩豆の会とか地引網体験などをやってきました。私が知っている料理人を30人ぐらい集めて500人ぐらいのお客さんを呼んで、子供さんもみんな連れて地引網を引いて、獲れた魚をそれぞれ焼いたり揚げたり、色々なことをしました。それに加えて、持ち込んだ料理も目の前で食べていただく。それまであまりなかったことでしたが、色々なネットワークが生まれました。

―それって、絶対にやらないといけないことではないですよね。でも、森さんから声がかかると料理人さんは動く。きっと、森さんから頼まれて集まることが楽しいのでしょう。

どうしてでしょうね。手間もかかるし、儲かるわけでもないんですけど。皆さんそれぞれ楽しみながら仕事をしてくれて、また来たいと喜んでおられますから、僕も楽しかったです。東京にある「バードランド 銀座」の和田さんも、鶏を持って喜んで駆けつけてくれたことがありました。パーティーをした時は「日本バーテンダー協会」会長の岸さんが、シェイカーでカクテルを作ってくれたことがあって。ありがたかったですね。

―それは、誰でもできることではないと思います。あとは、自分の店で他の店を紹介するとか。

要するに、食べ歩きをしていて、ご主人と仲良くなったから店に来てくれるわけです。ずっと食べ歩きを続けてきたからこそ、自分の料理の勉強にもなり、色々なところでプラスになっています。それと同時に、人との付き合いをもっと広げていきたいという思いから食べ歩きを始めた部分もありますね。そうすることでみんな生き生きするようになりましたし、仲良くなったと思います。

例えば、寿司屋同士が仲良くなるってあまりないことなので、すごく面白いなと。東京だったら絶対にないようなことも、皆さんがお互いに食べに行ったりすることで定着していきました。

パーティーもよくしましたよ。ある時、国際会議場の中のレストランに寿司屋さんを8軒ぐらい集め、あとは色々なジャンルの料理人も加えてパーティーをしたんです。料理人ばかり来ていますから、アトラクションで巻き寿司や握りをしてもらって、1位や2位を決めようと。ただこれが、みんなびっくりするほど下手なんですよ(笑)。「寿司って特殊なんだな」と思って、面白かったです。

―本当に色々な人に刺激を与えていますよね。食材もそうですが、森さんが名刺を配る店は本当によく広まっていく。自分だけではなく、その店の料理をみんなに食べてもらいたいという気持ちがあるのでしょうか。

やはり、皆さんに喜んでもらいたいという気持ちです。大阪の「ポンテ ベッキオ」は、私が感動したので「この感動を皆さんに伝えたい、食べてもらいたい」という気持ちで100枚ぐらいカードをもらってきて。毎日毎日「『ポンテ ベッキオ』に行ってください」と言いながら、渡していました。

謙虚な心を大切に、これからも自分の夢を追い続ける

―森さんはワインやお米、お塩までつくられていますね。常に前向きというか好奇心が旺盛です。

2003年にメルローを80本植えまして、毎年200本前後のカハラワインができます。ぶどうを摘み取りに行ったり、あとは醸造したり。2019年6月に大阪で行われたG20サミットで、晩餐会の時に使っていただきました。お米は鳥取・日南町のものです。あとは、淡雪塩も人気で、全国的に広まっています。スペインにも輸出していまして、ヨーロッパのシェフも使ってくれているんです。やっぱりコンプレックスが一番のベースにあるんで、それで色々やろうと思ったんでしょうね。

―以前お話しした際に、究極は6席の店にしたいとおっしゃっていましたね。

50周年にはそうしたいなと思っていたら、コロナの影響で延期になってしまいました。夢でもあるので、何とか最後は6席にと。これからも夢は追いかけていきたいです。

―色々と考えておられると思いますが、料理人を育てるとか、若手を育成するということについては、どのようにお考えですか?

食べに行った店を、もう少しグレードアップできたらといつも思っています。偉そうに言えることではないですが、最近の若い人は少し自信過剰な部分があるかなと。お客さんがたくさん来て、予約がいっぱい入ったらそれでOK。そんな風に思っている人が結構いるような気がします。でもそれは違うと思うんです。そこを勘違いしては駄目なんですよね。

料理人は「まだまだ、もっともっと」という気持ちを持っていなければ、それで終わってしまう。私も78歳になりましたが「まだまだこれからもやっていくぞ」という思いと「自分はまだまだだから、もっとやらないと」という2つの意味の「まだまだ」をずっと持ち続けています。自分の料理に自信を持つことは大事ですが、過剰になりすぎず謙虚な気持ちでいてほしいですね。

―具体的に今後チャレンジしていきたいことはありますか?

色々なことを、一つひとつ良くしていく。どうしたら驚いてくれるか、喜んでもらえるかということを考えて毎日少しずつでもやっていくだけなんですよね。今までもずっとやってきたことではありますが、これからも続けていって素敵な店にしたいと思っています。

*****

森義文氏 プロフィール

1944年 福島県生まれ
1962年 「兵庫県立西宮高校」卒業
1963年 「日本調理師学校」卒業 「神戸ニューポートホテル」入社
1965年 「東京社会保険会館」にてフランス料理の修業
1967年 北新地 「阿古矢」にて日本料理の修業
1968年 大阪ミナミ「ステーキハウス ニュー柿右衛門」にて3年間店長を務める
1971年 北新地「カハラ」開店
1975年 関西テレビ 15分間の料理番組に1年間レギュラー出演
1977年 季刊『四季の味』にて、以後20年間毎号料理を作成
1982年 柴田書店より『カハラの洋風料理』出版
1990年 ショットバー「カァラ」開店
1993年 京都「ギャラリーあきしの」にて、初の漆の個展
1994年 ニューヨークにて料理イベント「フェリシモギャラリー」で漆展
     ABCテレビ「ザ・包丁人」出演
1996年 パーフェクTV「竜の子厨房日記」13本出演
~1999年
2002年 『ごちそうものがたり』出版
2004年 『シンプルテイスト』出版
2009年 「現代の名工」受賞
2015年 「黄綬褒章」受章
2021年 「料理マスターズ」ゴールド賞受賞

編集後記
徹底した信念の持ち主だと感じる。78歳を超えてもまだ新たな世界を求める好奇心と探究心を持続する精神力には、頭が下がる思いである。加えて自分の料理を高めることだけでなく、常に期待する若手の存在を意識し、発掘し、それを広く知らしめる包容力と知見には驚くばかり。それは料理人だけでなく、生産者まで目配せをする視座の高さと視野の広さも余人には及ばないところである。カウンターが6席になる日を楽しみにしています。

門上 武司

1952年10月3日大阪生まれ。フードコラムニスト。
株式会社ジオード代表取締役。
関西の食雑誌『あまから手帖』の編集顧問を務めるかたわら、食関係の執筆、編集業務を中心に、プロデューサーとして活動。「関西の食ならこの男に聞け」と評判高く、テレビ、雑誌、新聞等のメディアにて発言も多い。一般社団法人 全日本・食学会 副理事長。2002 年日本ソムリエ協会より名誉ソムリエの称号を授与。
著書に、『門上武司の僕を呼ぶ料理店』(クリエテ関西)のほか、『スローフードな宿』『スローフードな宿2』(木楽舎)、『京料理、おあがりやす』(廣済堂出版)等。2023年11月29日発売の「あまから手帖別冊 食べる仕事 門上武司」(クリエテ関西)はこれまでの門上武司の食の歴史と、これからの「食」を考える刺激的な一冊。

このライターの記事をもっと見る

この記事をシェアする