赤坂「Wakiya迎賓茶樓/Turandot 臥龍居」脇屋友詞氏に聞く、料理人歴50年の軌跡と未来に描く中国料理のかたち

東京・赤坂に店を構える「Wakiya迎賓茶樓/Turandot 臥龍居」。今回はタベアルキストのマッキー牧元氏が、オーナーシェフ・脇屋友詞氏にインタビュー。料理人人生50年目を迎えた脇屋氏に、これまでの軌跡とこの先の未来について語っていただきました。

料理人生50年目、これまでの道のりを振り返って

-2023年は、料理人として50年目という大きな節目にあたる年ですね。まずは、これまでの経緯についてお伺いできますか。

Wakiya迎賓茶樓/Turandot 臥龍居の脇屋友詞氏

中学2年生の夏休みに、親と赤坂の「山王飯店」で食事をしたことがこの道へ進んだ大きなきっかけです。あの時は、たしか前菜でフカヒレのスープを食べました。あとは、エビチリや白菜のクリーム煮、牛肉の炒め物、麻婆豆腐といった、定番の中国料理。よく知られているメニューでしたが、僕にとっては今まで食べたことがない料理で「この世の中に、こんなにも美味しい料理があるのか」と感動したのを覚えています。

ものすごく衝撃を受けて、父親に「僕もああいう料理を作ってみたい」とポロっともらしたら「中学を卒業したら、すぐに修業へ行きなさい」と言われて。当時はひどい親だな、なんて思ったこともありました(笑)。

-それが結果として、長きにわたる50年の料理人生に繋がったのですね。

今となっては、言われたままに門を叩いてこの世界に入って、よかったと思う部分もあるんです。やりなさいと言われたことを、素直にやるだけでしたから。

「山王飯店」をはじめ、有名ホテルなどで腕を磨いた修業時代

-脇屋さんと言えば、やはり「山王飯店」での下積みが根底にあると思います。当時の様子についてお聞かせください。

当時は、80人ほどのコックがいたと思います。客席数は、結婚式に使う宴会場に500席、一般利用のグリルの方に150席くらい。とにかく大きなお店で、中国人の方も30人ほど働いていました。中国人のコックは絶対的に偉いという時代だったんです。

調理場は、宴会場とグリルで分かれていて、僕はグリルの方を担当していました。宴会料理ってある程度決まっていますが、グリルは一品料理のオーダーを覚えておかなければなりません。次から次へと飛んでくる中国語で書かれた伝票を見て、前菜だ、板(板場の料理)だ、点心だ、蒸し物だと、一斉に動いていく。大変ですが、最初にグリルを担当できたのはいい経験だったと思います。入って1年を過ぎたあたりから、薬味を切ったりと、少しずつ板の仕事をやらせてもらえるようになりました。

-板の仕事を少しできるようになって、鍋はいつ頃から任されるようになったのでしょうか?

鍋の仕事は、かつて自由が丘にあった「楼蘭(ろうらん)」に移ってからですね。「山王飯店」よりも100種類くらいグランドメニューが多い店で、先輩に「楼蘭に行けば、ほとんどの中国料理を覚えられるよ」と言われて、移ることを決めました。

入ってすぐは板で二番手を任され、そのうち鍋の担当が休む時に三番手として鍋を手伝えるようになって。「山王飯店」では、親方のすぐ横で鍋洗いをしていたので、調味料を入れる順番や火の調整など、大まかなことは自然と頭の中に入っていたんです。鍋をやりたいという気持ちもあったので「楼蘭」では、タイミングがあれば鍋であおり物や揚げ物を作っていました。

-料理は、まさに「量は質に転ずる」という面があるような気がします。

そうですね。今は色々と調べられて勉強しやすい時代ではありますが、やはり、こなして、こなして、こなして……これでもかと練習してきた人間とは、辿り着く先が違ってきます。昔って、先輩に質問しても言葉で理由付けできる人が少ないというか、目で見て覚えろと言われることも多かったんです。本を読むだけで頭でっかちになってはダメ、とにかく手を動かせって。

今となって思うのは、実際に練習した回数や経験値は、本を読んで得ただけの知識とは全く異なるということ。実践でこなしてきた人間とそうでない人間、やはりどこかで差が生まれてくる。労働時間の制約はもちろん大切ですが、上を目指していきたいのであれば、誰のためでなく自分のために色々な経験を積むことが大事だと思いますね。

27歳という若さでホテルの料理長に就任、大きな転機を迎える

-「山王飯店」では上海料理、「楼蘭」は揚州料理。様々なジャンルを経験されてきたのですね。

「楼蘭」のあとに入った「東武ホテル」は「山王飯店」と同じ上海料理を謳っていましたが、料理長が広東の方だったこともあり広東料理も織り交ぜていて。
その後「東京ヒルトンホテル(当時)」に入ってからは、広東料理や上海料理、北京料理など、ホテルらしく様々なジャンルを手掛けていました。

ヒルトンでは、僕の持ち場の隣にフランス料理の調理場があったんです。当時、時間を見つけては様子を見に行って、綺麗なお皿に盛りつけられたフランス料理を「綺麗だなあ」と思いながら眺めていました。

フランス料理は1人前ずつ提供していくわけですが、中国料理は小さくても2~3人前のお皿から取り分けるのが一般的。でも、もしそこでフランス料理のように1人前ずつ提供できたら、もっと違うかたちで中国料理を楽しんでいただけるのではないかと思って、いつも刺激を受けていましたね。とはいえ、当時は自分の意見なんて通る環境ではありませんでしたから「いつか自分がトップになった時にやってみたい」と心の中に秘めていたわけです。

-それが、コース仕立てのスタイルを生み出すきっかけになったのですね。その後、都心から急に立川へ行かれたそうですが、不安などはなかったのでしょうか。

ヒルトンの後は「キャピトル東急ホテル(現:ザ・キャピトルホテル 東急)」へ移り、ホテルでのキャリアを積んでいたところ、オーナーから「立川に新しくオープンするホテルの立ち上げを頼みたい」と声を掛けていただきました。

確かに、当時はすごく不安がありましたね。実際にホテルを訪れてみたら、原っぱばかりの本当に何もない場所に立っていて。僕だけでなく、結婚していて子供もいる従業員を一緒に連れて行くという話だったので「これは無理だな」と思いました。オーナーに正直な気持ちを伝えたところ「絶対に大丈夫。もし失敗しても、東京であなたの店を出してあげるから」と言われて。そこまで言っていただけるならと思い、立川へ行くことを決めました。

最初なんて、お客さんは全然来なかったです。立川は都心と比べると料理の値段相場が低いわけですが、だからといって安くしたくはなかった。都心と変わらない値段でやらせてほしいとお願いしていました。

でも実際にお客さんが来ると、アラカルトの値段に驚いてメニューの後ろのほうにある焼きそばやタンメンを頼むだけで帰ってしまう(笑)。やはり値段が高いのだと思い、1人や2人でも食べられるコース料理を、5,000円くらいで出してみようと考えて。それが功を奏して、徐々に評価していただけるようになりました。

-一皿が小さめでコース仕立ての中国料理、当時話題になって僕もお店にお伺いしました。立川で大きな転機を迎えられたわけですね。

ありがとうございます。当時思いついたことが今に繋がっているわけですから、お客さんがなかなか来なかったのも考えようによっては良い経験だったと思います。立川には丸10年いて、自分のやりたい料理を自由にやることができました。

当時のホテルにいたコックは、フレンチが15人ほど、一方で中国料理のコックはたったの5人。不思議なことに1年半でその人数が逆転したんです。売り上げも中国料理のほうが高かったので、オーナーも驚いていましたね。「何か希望はないか」と聞かれたので「とにかく人員を増やしてほしい」とお願いしました。人を増やせば、様々なことができるようになりますから。そうこうして3年ほどたった頃には、ホテルの総料理長になっていました。

-料理長になられたのが27歳、常識では考えられない若さですよね。

27歳で料理長と言うと、みんなびっくりしていましたよ。中国料理の場合、中国人がトップに立つことが当たり前の時代でしたから、日本人という部分でもさらに驚かれました。

-その後は、横浜に拠点を移されましたね。

横浜へ移ったのは、フレンチの石鍋裕シェフに「一緒にホテルをやらないか」とお声掛けいただいたのがきっかけです。石鍋シェフの考え方やセンスはすごく勉強になりましたね。

「パンパシフィック横浜ベイホテル東急(現:横浜ベイホテル東急)」内にあった「トゥーランドット游仙境(現在閉店)」で10年ほど総料理長として務めた後、今度は僕が「Wakiya一笑美茶樓(いちえみちゃろう)」をやりたいとお話しして。両方の店を兼務しながらやっていくことになりました。

「Wakiya一笑美茶樓」も、始めた頃はなかなかお客さんが入らなかったのですが、次第に評判が良くなっていったんです。ある時から予約が取れないと言われ始めたので、もうちょっと大きい店が欲しいと思い作ったのが「Wakiya迎賓茶樓/Turandot 臥龍居」です。

-「Wakiya一笑美茶樓」では、どのようなコンセプトで料理を作られていたのでしょうか。

「Wakiya一笑美茶樓」では中国の家庭料理という意味の「家常菜(ジャーチャンツァイ)」をテーマにしていました。もともとはわりと安価な料理を出していたのですが、評判が良くなるにつれ「もう少し高価なものを出してほしい」という声が増えてきたので、フカヒレや鮑などを出すようになって、少しずつ単価も高くなったという流れです。

スペシャリテとも言えるフカヒレ料理へのこだわり

-脇屋さんと言えば、やはりフカヒレ料理は欠かせないと思います。フカヒレとご飯を合わせる食べ方は、ご自分で思いついたのですか。

日本人ってご飯が好きじゃないですか。だから、お客さんにもフカヒレとご飯を一緒に出してみたらとても好評で。中国だとそういった食べ方はまずしないのですが、香港なんかに行くと「清蒸(チンヂョン)」の魚の汁をご飯にかけて食べたりすることがあります。

日本で言うなら、煮魚を食べたあとの汁をご飯にかけたような感じ。自分でもやってみたら、やはりこれは美味しいなと。今までのフカヒレはあまりスープがなかったのですが、スープを少し多めにして、残ったところにご飯を入れて食べてもらうという風に変えていきました。

-フカヒレ以外の料理でも、作る際に意識されていることはありますか。

日本は春夏秋冬がはっきりしていますから、やはり季節に応じた旬の野菜を使う方がいいと思います。安くていっぱい出回る野菜などを、いかに美味しく食べるか、いかに栄養価の高い状態で食べるか、ということは中国の大陸的な考え方です。

これを僕が置かれている立場で考えると、お客さんの5,000円、1万円、2万円という枠の中で、いかに美味しく食べていただけるものを作るかということになります。だからこそ、地方を回って、生産者の方と仲良くなったことで仕入れさせてもらえる野菜を使うなど、様々な工夫をしています。上海料理って、醤油漬け、塩漬け、乾燥したものが多いので、そういったものと合わせると野菜の味が出てより美味しくなりますから。

-一方で、中国料理には値段の高い乾貨を使うこともありますよね。高級乾貨についてはどのようなお考えを持たれていますか。

当然ながら、ツバメの巣、魚の浮き袋、干し鮑などの高級素材を使うこともありますが、今はちょっとずつそういうものを使わないような料理に変えていきたいと考えていて。高級素材を使わなくても違うかたちで喜んでもらえる、どこかほっとするような料理ができたらいいかなと。

長い年月を経てきた料理人として、現在そして未来に思うこと

-今は、全国に良いお店ができて若い料理人が頑張っていますし、同じ中国料理でもジャンルの幅が広がっていると感じます。その中で、脇屋さんはこの先をどのように考えていらっしゃいますか。

今の中国料理業界は、昔のような大飯店ではなく、小さなカウンターで5席や10席のみという店が増えてきています。その中で「この店は他と何かが違うな」と思ってもらうには、これまでのように高級な食材を出すだけでなく、一味違う料理が必要になってきます。例えば、日本の都道府県には様々な乾物がありますから、それを塩蔵ものや旬の素材と合わせていく。こういったことでも、今までとは違うものができるのではないかと思うんです。伝統的なものづくりを続けている生産者の方も、たくさんいらっしゃいますので。

北海道のシシャモなどもそうです。卵を持っているメスの方がよく食べられていますが、実はオスもすごく美味しいんです。そのオスを上手く料理として出せたら、新しい価値観を見出せるのではないかなと。魚の干物や発酵食材なんかもいいですね。そういったものを使う料理を、これから勉強していきたいなと思います。

-12月には、銀座に新しい店舗をオープンされるそうですね。

そうですね。カウンターと個室のみの店でして、僕も毎日厨房に立ちます。
今いる「Wakiya迎賓茶樓/Turandot 臥龍居」は今の統括料理長にバトンタッチして、僕は銀座の小さな店でお休みも取りながら、次のステージへ進もうと思っています。

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脇屋友詞氏 プロフィール
1958年北海道生まれ、15歳で料理の道に入る。赤坂「山王飯店」ほかで経験を積み、27歳で都内ホテルの料理長になる。1996年「トゥーランドット游仙境」代表取締役総料理長に就任。2001年「Wakiya一笑美茶樓」をオープンし、現在は3店舗のオーナーシェフを務める。上海料理の技をベースに洗練された料理で日本の中国料理界をリードする一方で、メディアを通じて中国料理の楽しさを広く伝えている。2014年秋の叙勲で黄綬褒章を受章。2023年に料理人人生50年を迎えた。公益社団法人日本中国料理協会会長。

中国料理

Wakiya迎賓茶樓/Turandot 臥龍居

東京メトロ千代田線 赤坂駅 6番出口より徒歩6分

20,000円〜29,999円

【編集後記】
脇屋さんの料理にはいつも驚かされる。料理への知識の深さはさることながら、常に日本全国の良き食材へ目を凝らし、それらを生かしながら、斬新な料理を作られるからである。先日、料理人生50周年を迎えられた脇屋さんの記念料理会でも、新しく発想された料理が次々と出されて、心を揺れ動かされた。今回インタビューさせてもらい感じたのは、時代の寵児として脚光を浴びた、立川のリーセントパークホテルの頃から今まで、常に新たな手法や新たな食材に対して、貪欲に目を向けられてきたことである。だからこそ脇屋さんの料理は変わることなく、いつも我々を感動させるのである。

※こちらの記事は2024年10月28日更新時点での情報になります。最新の情報は一休ガイドページをご確認ください。

マッキー牧元

「味の手帖」編集顧問。 国内、海外を問わず、年間700食ほど旺盛に食べ歩き、雑誌、テレビ、ラジオなどで妥協なき食情報を発信。近著に「超一流サッポロ一番の作り方」(ぴあ)がある。

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