日本橋駅から徒歩で約1分、複数の高級飲食店が入居するビルの6階に店を構える「天ぷら浅沼」。2022年9月のオープン以来、瞬く間に予約困難店となった新進気鋭の天ぷら専門店です。今回は店主・浅沼努武氏に、天ぷら職人になったきっかけや、老舗の名店での修業時代から27歳という若さで独立開業した経緯、そして「天ぷら浅沼」が提案する“新江戸前天ぷら”について、存分にお話を伺いました。
天ぷら職人になったきっかけと「銀座 天一」での実り豊かな修業時代
-浅沼さんが料理の道に進まれたきっかけは何でしょうか。
元々僕の夢は、料理人ではなかったんです。父が看板職人をやっていたため、小さい頃は「絵描きになりたい」と思っていました。でも、僕の家は父子家庭で、姉や僕が家族の料理を担当していたのですが、ある日父から「お前は嗅覚と味覚が優れているから、それを活かした方がいい」と言われたことがあって。父は厳格な人で、あまり褒められたこともなかったんですが、そんな父から僕が唯一褒めてもらったのが、嗅覚と味覚でした。それなら「料理の道に行こう」と思い、中学卒業後は調理師学校に進学しました。
-お父様の言葉がきっかけになったのですね。その中で、天ぷら職人を目指された経緯についてお聞かせください。
当時、僕はフレンチのシェフやパティシエになろうと考えていたんです。でも、恩師の先生に進路相談をした時に「苦手な料理はなんだ」と聞かれ「鮨と刺身と天ぷら」と答えたことがありました。僕は小さな頃から胃が弱く、生ものと油ものが苦手だったんですね。 すると「東京で一流の和食を食べたことがないのに、そんな風に決めるな」と言われました。「『銀座 天一』を紹介するから、一度食べに行って来い」と。
そこで初めて「天一」の天ぷらを食べて「こんなに食材の味がして、胃もたれをしない天ぷらが世の中にはあるんだな」と感銘を受けました。それから苦手だった天ぷらに興味を持ち、天ぷら職人を目指そうと思いました。そして、調理師学校を卒業後は、恩師の紹介ですぐ「天一」に就職することができました。
-最初から「天一」一筋だったのですね。
はい。最初に「帝国ホテルタワー館」にある銀座店で約4年、その後は他の店舗で約6年近く、合わせて9年4か月間「天一」にいました。
-「天一」での修業時代で、特に印象に残っている経験や、今に活きている学びなどはあるでしょうか?
料理に関しては「見て学べ」という環境だったことが面白かったです。例えば魚の捌き方など、一から教えてもらうよりも見て学んだ方が「なんでこうやっているんだろう」とか、自分で色々なことに思考を巡らせるんですね。基本の技術は教わりますが、あとは自分でやってみて、失敗したら怒られる。こういう経験は僕の中で新鮮でした。自分のやり方を試しては失敗し、怒られては修正、と繰り返していくうちに、段々とやり方にオリジナリティが生まれてくるんです。それが僕にとっては貴重な修業経験だったな、と思います。
あとは、当時お世話になった先輩に「落語を聞け」と言われたことが印象に残っています。天ぷら屋はカウンター商売なので、トークサービスが大切なのですが僕は元々内気で、人前で話すことが苦手だったんです。でも、先輩に言われて落語を聞くようにしてみたら、話の“間”や、声のトーン、ちょっとしたギャグセンスを落語から学べることが分かりました。すると、お客様とのコミュニケーションですぐに使える。トークサービスの面で“落語を聞く”というのは、とても学びになりました。
他には、掃除です。「調理道具を綺麗に扱う」「店内を清潔に保つ」などは、お店にとって本当に大事なことです。料理人として基本中の基本ですが、それに加えてこのSNSの時代、お客様が店内の写真を撮られていくので、そこで清潔感や衛生面がお店の評価に直結する。なので、うちもオープン以来、掃除や整理整頓には特別に気をつけています。また、天ぷらはお召し物ににおいがつきやすいので、換気設備にもかなりお金をかけています。おかげさまで、現在まで「清潔感のあるお店」というクチコミや評価を多くいただけています。
このようなサービス面の意識というのは「帝国ホテル」に入っていたお店にいたからこそです。格式が高いお客様が多かったため、トークサービスや清潔感、その他の気配りを磨くことができたので「帝国ホテル店」という環境にいたことが大きかったですね。
-修業時代を経て、日本橋で「天ぷら浅沼」を開業された経緯をお聞かせください。
日本橋という地は、江戸時代は船が行き来して新鮮な魚が売買される魚河岸でした。その魚河岸の界隈では旧築地市場のように、獲れた魚を天ぷらや鮨、蕎麦に海鮮丼といった形で出す飲食店が流行っていたそうです。その話を知ってから、僕も「“江戸前天ぷら”を流行らせるなら、日本橋しかない」と思って出店を決めたものの、当初は家賃のことも考えて、東銀座や新富町などの街にしようかとも思いました。でも「やるからには中途半端な考えは捨てよう」と決心した時に、当時はまだ工事中だったこのビルに出会ったんです。20代の人間が申し込んでオーナーから許可が下りるのか不安でしたが、ダメ元でお願いしたらご承諾いただけたので「それならもうここで勝負しよう」と覚悟が決まりました。
また、面白い偶然なんですが「天一」出身の僕の他、焼鳥や鮨など、各ジャンルの名店ご出身の方が、このビルに入居されているんです。まるで先ほどの江戸時代の日本橋のように、色々な美味しいお店がここに集まってきています。
-開業されてから1年と経たず、すでに予約困難店となっていますが、浅沼さんご自身の手応えや、お客様からの反響はいかがでしょうか?
これだけのご予約をいただけているのは予想外でした。予想よりも年齢層が若いお客様にも来ていただいて、その方々がYouTubeやTikTokに載せてくださるんです。
それで、20~30代前半のお客様に聞いてみると「天ぷらは、今まで敷居が高くて行きづらかった」と仰るんですね。
でも「この店は、店主も若いしお手頃な金額で食べられるので、初めて天ぷらを食べに来ました」と言われる方が多くて、僕としては“お客様に天ぷらを感動して食べてもらえること”を求めていたので嬉しいですね。
また食通の方からも「こんな、天ぷら一本勝負の店を求めていた」などと言っていただけることもありますし、全体的に予想以上の手応えを感じています。
衣の食感を味わい、天つゆと生醤油で食べる“新江戸前天ぷら”
-浅沼さんがこだわっている“衣を味わう天ぷら”についてお聞かせください。衣にはどのようなこだわりがあるのでしょうか。
小麦粉は、きめが細かくグルテンが発生しにくい「スーパーバイオレット」を使っています。これをマイナス23度の冷凍庫で約2日寝かせて乾燥させた後、卵と混ぜてスポンジケーキのように泡立てます。
そして、気泡でメレンゲ状になった部分だけを衣に使って揚げます。すると中が空気なので、食べた時にシャクッとして、口の中でほどけていくような“軽さと食感のある衣”になるんですね。これが食材と合わさると、絶妙な食感のハーモニーが生まれます。
今の時代は“衣が薄く、塩で食べる”という天ぷらが主流となっていますが、うちみたいな“衣を味わう天ぷら”があってもいいんじゃないかと思いますね。それを天つゆにつけて、衣と油を十分に楽しむ。僕はそれが本当の“江戸前天ぷら”だと思っていて、そんな料理を日本橋で出したくてこのお店がある、と考えています。
- “江戸前天ぷら”とは、もう少し具体的に言うとどのようなものなのでしょうか?
“江戸前天ぷら”を一言で言うと「東京で、胡麻油100パーセントで揚げたものを、天つゆにつけて食べる天ぷら」です。薄い衣を塩で、というのは「精進揚げ」に近く、言わば京都の天ぷらの食べ方なんですよ。やっぱり衣がザクザクとしたものを天つゆにつけて食べてこそ“江戸前の食べ方”だと思います。
-天つゆについてもお伺いさせてください。天つゆにはどのようなこだわりをお持ちでしょうか。
天つゆには、江戸時代には綺麗な胡麻油があまりなかったので“天ぷらについた余分な油を、つゆで洗い落としてさっぱりと食べる”という意味があったんですね。その歴史を知って、僕も「天つゆを大事にしよう」と思いました。また、僕は山形出身なんですが、山形には蕎麦つゆで天ぷらを食べるという文化がありました。その2つのルーツから「僕の天ぷらに合う王道なものを作ろう」と思って開発したのが、今の天つゆです。鰹出汁、濃口醤油に、上白糖と本みりんを独自の配合で混ぜて作っています。最初は「蕎麦でも出すのか」と笑われたりしたこともあったんですが、今では「この天つゆが美味しいから」と、飲み干してしまうお客様もいらっしゃいます。少し塩分が心配なのですが(笑)
-浅沼さんがご提案される“新江戸前てんぷら”には、生醤油につけて食べる天ぷらもあるとか。
はい。“新江戸前天ぷら”は2023年から始めたことなんですが、虎ふぐの白子の天ぷらを出した時に、生海苔に乗せて生醤油と黒七味をかけてご提供してみたんです。それが思いのほか受けが良くて、それから天ぷらと醤油の可能性に気づき、色々と試しました。賄いでも、やっぱり毎日食べていると食べ方を変えてみたくなる。それで野菜でも試してみたところ、茄子の天ぷらに大根おろしと醤油をかけるとよく合って美味しかったんです。
それで、これはお客様にも出せそうだと。やっぱり“新しい江戸前天ぷら”という文化を発信したいと思っているので、アグレッシブに試しています。ちょっと変わったチャレンジをしても、僕みたいな年齢の人間なら受け入れてもらえるのではという、可能性を信じて。
-おまかせコースの内容は、全て天ぷらのみの構成ですが、あえて他の料理をご提供されていないのはなぜですか?
「天ぷら一本勝負がしたい」というのが理由です。僕は食べ歩きも好きで、ジャンル問わず色々なレストランに行きますが、自分が好きになるお店は大体「鮨なら鮨一本」など、小料理をあまり出さないお店なんです。メインに行く前に小料理でお腹がいっぱいになると、そのお店のメインの印象が薄くなってしまうんですね。だから僕も、小料理で逃げたくなかった。
コースの最初には「ハトシ」という、長崎料理の“揚げパン”をお出しします。そこから締めのかき揚げまで、全部天ぷらをベースとした料理をご提供します。それで「天ぷら一本で勝負している、なのに食べ疲れしない」という印象を残せたら本望です。
農家から旬の野菜を直接仕入れ、もっと美味しい天ぷらを作りたい
-浅沼さんが現在挑戦されていることや、今後取り組んでみたいことがあればお聞かせください。
今一番やりたいことは、地方の農家さんをもっと回って、旬ごとに美味しい野菜を直接仕入れることです。1つの野菜も、季節とともに旬を追って産地が移動していくので、全国を回って農家さんと繋がりをもって仕入れるようにしたいです。その野菜を使って、もっと美味しい天ぷらを作るのが今の夢ですね。少し落ち着いたので、これからやっとできそうです。
あとは先ほども言った通り、衣がしっかりとした天ぷらを天つゆと醤油で食べる“新江戸前天ぷら” を、もっと多くのお客様に召し上がっていただいて、この食文化をもっと世に広めたいですね。
それから、天ぷら職人を目指す若い人達にメッセージを伝えたいです。大体言い訳してしまう時は「揚げる環境がないから練習できず、独立できない」と言うんですが「小さくてもいいので、自前でガスコンロと天ぷら鍋を買って、自宅で揚げる練習をすれば誰でもできるよ」と言いたいです。僕もそれで「天一」とは違う衣を自分で作ったし「やる気次第ではこんな開業の仕方だってできるよ、だから頑張ろう」ということを伝えていきたいと思います。
浅沼努武氏 プロフィール
山形県生まれ。調理師学校を卒業後、天ぷらの名店「銀座 天一」で9年4か月間修業を積む。修業中も数々の有名店へ足を運び「美味しさ」の研究を重ねながら技術を磨き、2022年9月に27歳にして日本橋「天ぷら浅沼」をオープン、1年と経たずに予約困難店に。江戸前天ぷらの伝統と魅力を今に伝えるべく“新江戸前天ぷら”を提唱し、日々研鑽を重ねている。
【編集後記】
若くして人一倍研究を重ね、自分の“天ぷらのスタイル”を確立されている浅沼氏。“江戸前”のルーツやそこにこだわる理由、そして伝統を発展させて新しい食文化を生み出そうとする気概が伝わってきました。基本から外れることなく、今もなお進化を続ける“新江戸前天ぷら”を味わいに、ぜひお店に足を運んでみてはいかがでしょうか。
※こちらの記事は2023年10月04日作成時点での情報になります。最新の情報は一休ガイドページをご確認ください。