西麻布「山﨑」山崎志朗氏に聞く、料理人としてのこれまでとこれから

西麻布の交差点からほど近い場所に佇む日本料理店「山﨑」。
今回は、山本憲資氏が店主・山崎志朗氏にインタビューを実施。
料理人を目指したきっかけから、今後の挑戦まで多岐に渡って伺いました。

最初に料理人になろうと思ったきっかけ

最初に料理人になろうと思ったのは、小学校の5、6年生の時くらいだったと思います。回転寿司じゃないお寿司屋さんに連れて行ってもらった時に、「かっこいいな」と思って、この仕事をしてみたいと思ったんですよね。僕の実家は多摩センターにありました。当時、駅前に百貨店があり、そのレストランフロアに入っていた築地にある有名寿司店グループのお店でした。そこで「どうやったら寿司職人になれますか?」って板前さんに聞いたら、「中学校卒業したらうちに来ればいいよ」と教えてもらって。今思うとだいぶいろいろすっとばした話ですよね(笑)。両親の仕事が料理関係だったということはなく、父は医師で母は専業主婦でした。僕は3人兄弟の真ん中です。中学校に入学して「あと数年で自分は板前として働くんだな」とおぼろげに思っていたのですが、その頃に流行っていた明石家さんまが弁護士の父を、広末涼子が娘を演じたドラマを観て「これは弁護士がいいな」と思って。そこから弁護士か寿司屋という2つのオプションが進路に生まれたんですよ(笑)。その上で母に「中学出てすぐに寿司屋になると、働いているのは自分だけになって友達もいなくなっちゃうかもよ」と言われて、単純に寂しいなぁと思ってしまいました。それが中学2年生の頃です。そこから高校に進学することを決めて、ちゃんと勉強も始めて、結局、都立の国立高校というそれなりの進学校に進みました。そう、やればできるんです(笑)。

パティシエ、弁護士にも心を惹かれた高校時代

高校入学後、今度は滝沢秀明主演のパティシエのドラマが流行るんですよね。そのモチーフになったのでは、とも言われている「レ・アントルメ国立」というお菓子屋さんがちょうど高校の近くの国立の大学通りにありまして、次は、「パティシエもいいかな」と思い始めるわけです(笑)。さらにそのあと「料理人だったら中華街は世界中にあるから、中華を選ぶと世界のどこでも働けるな」とか「やっぱり弁護士もいいな」とか逡巡を繰り返しました。進路担当の先生からは「そんなことを言われても困るから家でしっかりと話してくるように」と言われ、家族会議を開きました。結果、料理の道も視野に入れながら弁護士も諦めず、であれば中間を取るわけではないのですが一旦大学に、ということになりました。「食事に携わる仕事だと管理栄養士も悪くないかも」と思って理系を選択し、高校3年生を迎えました。予備校の春期講習に通いながら、ちょうど勉強がいやになってきていた時期に、ふと「栄養士ってどんな仕事をするのかな」と。ハンバーグを切った時に流れ出てきた肉汁とか、熱によってタンパク質がどう変色するのかとか、肉汁のエキスに何がどれくらい含まれているのかを調べる、そんな学問なのかと想像を巡らせて。どうすれば美味しいハンバーグを作ることができるのかを考える、キッチンに立つ側の人間の方とどちらがいいのかを比べて考えた時に「やっぱり美味しいものを作れる方がいいな」と思ったんです。そこで父に「やっぱり料理人になりたいので専門学校に行きたい」と伝えたら「お前、それ本気なのか」と訊かれて「はい、本気です」と答えました。絶対に辞めるなよと釘を刺されて、周りのみんなは大学受験をしていくごりごりの進学校の雰囲気の中で、僕はひとり別のルートを進んでいくことになったのです。

高校の近所にあった「エコール 辻 東京」の体験入学に、日本料理・西洋料理・製菓と3つのコースがありまして、僕は3コースに各2回ずつ行ったのですよね。なかでも日本料理は地味で、赤だしの味噌汁に天丼を作りました。「車海老って高いんですよ」とか教えてもらいながら、海老を剥いたり。西洋料理はイタリアンとフレンチを、あとデザートもついてきていましたね。スカンピ(手長エビ)のパスタや、牛肉のフォンドボーベースの赤ワインソースを作ったり。さらにパイ生地にりんごを敷き詰めてオーブンで焼いて、熱々のところに先生が作ったバニラアイスを落として。製菓は持って帰れるようなお菓子を3種類くらい作るんですね。高校生からしたら華やかだし、それがめちゃくちゃ美味しくて。ただ、甘い物を食べることは自分にとっても大事な癒しなのですが、パティシエになるとその時間すら仕事モードになり、それは辛いなという気もしてきて、西洋料理に気持ちが傾きかけていました。そんなときに高校生の思考ながらに感じたのですよね。「フレンチのシェフだといくら日本人がフランスでがんばってもフランス人のシェフに勝てないのでは」と。それは違うよともし今言われたら「もちろんそうですよね、大変失礼しました」と思いますけど、その時は勝てるはずないと思っていて。同じ考え方で、日本料理だと国内で1番になったらそれは世界で1番と言われて然るべきでしょうと。少し打算的な側面もあったと思うのですが、日本人の母数は1億数千万人、西洋料理を母国料理とする世界の人口から考えると、日本料理の方が1番になれるチャンスが高い気がして。最終的に日本料理のコースへの入学を決めました。

覚悟を決めて専門学校に入学

覚悟を決めて入学した以上、友達を作りにいっている感覚はなく、毎日一番最前列に座って講義を受けました。学費が年間220万円くらいで、授業日数を日割り計算すると1日約1万円。そう思えば授業はムダにできず「早くお店を持ちたいな」とか「技術の高いお店に就職したい」と思い、学校を首席で卒業しました。たとえばの話ですが、東大を卒業し、一部上場の大企業に入ってそこからガソリンスタンドの店員になることって物理的には可能なんだと思います。でも、大学を卒業せずにガソリンスタンドの店員になったあと、例えば大手の商社の社員になることって一般的にはハードルが高いじゃないですか。飛び越えないといけない壁が多すぎる気がして。料理も一緒で、たとえば、居酒屋のチェーン店のようなカジュアルなお店での経験をベースに高級な店を作っていくのって難しいところがあるだろうし。そういう目標設定をするのであれば、高い方から先に入っていったほうがいいだろうなと。しっかりとした技術を自分のものとして培うためには、漬物や梅干しひとつとっても自分たちで作っている店がいいなと思いました。そうなると一つひとつの仕事に時間がかかり、必然的に長時間労働が当たり前の世界になるわけですが。

一介の専門学校生がなぜちゃんとしたお店を選べたかというと、高校生の頃から雑誌『dancyu』や『ザガット・サーベイ』を愛読していて、読みながら通学していた、というのが理由のひとつです。”いい店”の情報は高校生にしてはよく知っていたと思います。「もりかわ」も雑誌で名前を聞いたことがありました。お店の広さの割に人が少なかったので「早い内からいろいろやらせていただけるのでは」と思って研修に入らせてもらいました。お寿司屋さんになるという夢が途中からすり替わっているわけですが、お寿司屋さんになりたいなという気持ちも残っていました。その時、母に「あんたは飽きっぽいから潰しがきくほうにしておいたら」と言われたんです。日本料理の枠組みの中のひとつにお寿司というものがあるのだとしたら、まずは大きい枠組みの方にいったほうがいいなと。それなら普通に大学行けよって話ではあるんですが(笑)。

赤坂「もりかわ」での修行時代

そうして「もりかわ」で働きはじめるものの、初日で辞めたくなるほど辛かったです。先輩が3人いて、同期も3人いたのですが、少しずつ欠けていき、3年くらいで先輩は全員いなくなってしまいました。多くの料理人志望の子たちが、勉強が苦手でなんとなく専門学校に行き、その流れで就職しているので、長い時間何かに従事するということに対しての精神的な耐性が乏しい部分はあるのかもしれません。僕、昔から貯金が好きで、5万円は必ず毎月貯金していました。年間60万円貯まる計算で、8、9年働くと500万円くらい貯まるわけです。5、6年経つと、今後も板前見習いのままこの貯め方を続けてもペースがゆっくりなので、何かスキルを身に付けねばとなり、ワインスクールの門を叩きました。スクールでの体験は新鮮で、普段の自分からしたら雲の上のようなお金と時間に余裕がある方々が自分と同じ生徒として机を並べていて。僕は見るからに料理人なので、皆さんからこの「ワイン、どう思いますか?」とか聞いてもらえるんですね。人として扱われる、フラットに接してもらえる環境ってなんて楽しいんだろうと感じて。モチベーションが上がって「ここで知識をつけていこう」と。真面目に勉強したら褒めてもらえるし、人として尊敬してもらえる。どんどんのめりこんでいき、外界の人たちとの関わりが生まれはじめて、今の環境はやっぱりちょっと違うなと客観的に認識しはじめたところがありました。お金がなさすぎてスマホも持ってなかったですしね。

いよいよ自分のお店をオープン

その頃「嫌われる勇気」という本がベストセラーになっていました。昔から週に1冊は本を読めと親に言われていて読書は好きだったんですよね。これを読んで、お店で遭遇する理不尽に対して「間違っていることには間違っている」と主張することに後押しされたような気分になったんです。板前になったのもお店やりたかったからだし、と修行先を離れる決断をしました。 あと、当時27歳だったのですが、この時期に自分の店を持つ決意を固めます。 この歳で一度チャレンジしておくと、一度失敗して借金ができたとしても、死にものぐるいで働いてがんばって返済すれば、40歳くらいでもう一度挑戦できそうだなと思ったんですね。店を始めるにあたって、まずは全部手書きで事業計画書の準備をしました。「もりかわ」の客単価は4〜5万円でしたが、そのレベルの食材を最初から使うのは難しく、コース1万円くらいで、焼鳥に和食を少し織り交ぜてワインも飲める店をやれば流行る、と思っていました。さっぱり、流行らなかったんですが(笑)。

3日間、お客さんが来ないときもありました。2015年9月に「霞町かしわ割烹 しろう」をオープンして、11月には残金が80万円くらいになっていたんですよね。家賃が約35万円で、あと2ヶ月でキャッシュアウトしてしまう状況です。家は借りられずで、お店にダンボールを敷いて寝て、シンクで髪の毛を洗って、母に洗濯物や下着を届けてもらっていました。そんな中、「もりかわ」時代のお客さんが聞きつけて来てくださっていたことがありました。予約困難な焼き鳥店の予約も欠かさない方だったんですが、「別に山崎くんの焼鳥とか食べたくないんだよ」と、言われて。「和食だと1万円だと難しいんですよね」と、答えたら、値段はどうでもいいと。「今度4人で来るから和食を作ってね」とおっしゃってもらい、2万円くらいで作ることになり、そんな企画を月イチくらいでやるようになりました。ある時、和食をお願いされていた日に、間違えて焼鳥の予約も入れてしまったことがありました。焼鳥を焼きながら和食を作るってできないんです。和食は4人、焼鳥は2人、これは申し訳ないけど、焼鳥を予約していたお客さんにも覚悟を決めて和食を出しました。そうするとそのお客さんが「和食を食べたい」とまた来てくださって。「俺は焼鳥が食べたかったのに」と、そのお客さんが怒って帰られてしまっていたら、今の僕はなかったかもしれないです。

和食との対峙、そして移転

「和食出していいんだ」と、自信が出きたところで、焼鳥から割烹へと業態変更をして、「霞町しろう」としてお店をリニューアルしました。少しずつ軌道に乗ってきましたが、8坪のテナントだとできることも限られていました。コース2万円なのにハイチェアだと違和感があり、ちゃんとしたところに移る必要があるなと。ちょうど今の「山﨑」の場所が空き店舗で出たので、そこを急いで借りて設計してもらった図面を持って、諸々の手続きを進めました。せっせと繰り上げで返していた前の借金の返済が終わったばかりではあったのですが、より金額の大きかった融資の決裁が無事おり、現住所にお店を移転できることになりました。

工事にはそこから数ヶ月かかり、時間ができたので、広尾にある「CHIUnE」の古田諭史さんが前のお店に来てくれていたご縁で「皿洗いをさせてください」とお願いしました。あわよくば給料もください、と(笑)。「CHIUnE」がオープンしてから1、2年くらいの頃ですね。「CHIUnE」の、お客さん全員の食事が同じ時間にスタートして、苦手な食材があってもアレルギーじゃないと聞かないというドSなスタイル、凄いんです。料理が美味しいとお客さんはここまで言うことを聞いてくれるのか、と。美味しさの正義、ですね。美味しさのためには何をどうしないといけないのか、そこを突き詰めることに全てを賭けないといけないんだなと。全部のお皿が同じクオリティで、どのお客さんにも最高の状態で出すことを本当に徹底しているんです。高い単価を払ってもらうとはそういうことで、たとえば炊きたてのご飯が美味しいのは心理としても当然、手間を惜しんで30分前に炊けたご飯を出しても、そういうお値段を払っていただけません。2018年の4〜5月の2ヶ月間お世話になって、自分が目指すレベルに改めて気づかせてもらえました。

東京以外のお店を見てみたいなと思い、京都にウィークリーマンションを借りて、6月から7月下旬まで当時はまだ移転前だった東鉄雄シェフのミシュラン一つ星店「aca」でも研修させてもらいました。8月10日には、新店舗の引き渡しが完了、2018年8月23日に現住所でのお店のオープンを迎えます。

「山﨑」のオープン

オープン当初から二回転は難しいと思い、翌年2019年の年末までは一回転で営業しました。まずしっかりと認知をしてもらうことが大事だなと。何が作れて何が作れないのかといった自分のペースが掴みきれない部分があり、そこを土台として築きました。食事のスタート時間だけは全てのゲストに揃えていただくことにはこだわり、その日の最初の予約をいれた人の開始時間がその日の開店時間というスタイルにしました。諭史さんから最初の1ヶ月間は死ぬ気で予約を埋めろ、と言われ、1ヶ月ができたら3ヶ月もできる、と。3ヶ月ができたらもうあと大丈夫だと教えてくれたんですが、本当にその通りでしたね。
前のお店の時はお客さんが来ない日もあり時間があったので、どう苦しんでいるかとか、せっせとFacebookに投稿していたんです。作文をしまくっていて。今も文章を書くのが好きなのはその時代の影響だと思います。「aca」で研修させてもらっています、とか、オープンまでこうします、みたいな話が全部ストーリーになっていて、物語に共感してもらうことで、結果としてお客さまとの繋がりが希薄にならずに開店を迎えられたと思っています。前の店からのお客さんが新しいお店を待ってくださっていて、オープンすぐに駆けつけてくださって嬉しかったです。移転にあたってロケーションは一番心配していたトピックのひとつで、場所は変えてはいけないと考えていたのです。あと、西麻布は深夜まで営業するお店も多く、借金が返せなくなりそうな時には夜通し営業すれば、体もまだ無理を聞いてくれそうな歳なこともあり、借金くらいは返せるだろうという目算がありました。これも打算ですかね(笑)結婚は最初のお店をオープンしてまだ借金しかなかった時代で、妻とは前述のワインスクールで出会いました。よくオッケーしてくれたなと。今は育児に専念してもらっていますが、出産前はお店に一緒に立ってもらっていて、妻がいなかったら自分なんて何もできません。ちょっと前にInstagramに「8年前の山崎くんへ」という過去の自分に向けた長文の手紙を書いたのですが、一番書きたかったのは最後の「ワインスクールに行かないとダメだよ」の部分なんです(笑)。

和と洋のアプローチの違いを考える

食材のクオリティが5点満点として、雑味で1点分減点された4点の鯛があったとします。和食の場合、減点をもたらす要素を取り除くのに注力するのですが、フレンチだと雑味を取り除くより、ソースで減点分の点数を加点し、プラスマイナスで5点満点を超えるお皿ができてしまいます。5.5点、6点の素材というのも稀に存在していて奪い合いです。価格は高くなりそこにリーチできると仕入れが凄いよねとなります。「CHIUnE」や「aca」の場合、そういう素材に味付けで2〜3点を加点したあげくに、雑味の処理までやってしまう、強い。和食だと加点のオプションが限定される部分がどうしてもあり旨さを点数で表したらなかなか勝ち目がない。山﨑のオープン間もない頃には「CHIUnE」や「aca」で学んだことにチャレンジしてみたくて、何かいい方法がないものかと考え続けていました。
”A”という料理があるときに、和食以外で学んだアイデアを入れ込んだ”A’”という料理を同じ食材をベースに作り2つを比べます。そうするとその反動なのか、今度は”B”という”A”をさらにクラシックに振ったお皿を反証法的に作っていったりで。何年か試行錯誤をしながら”A’”に行ったりまた”A”まで戻りそこから”B”まで行ったりを繰り返したのですが、今年になってからスパっとキマる按配が分かってきたのです。”A’”の場合、僕はこれぐらいいろいろできるんですとボール2個分くらいはみ出した料理を作っていました。やりながら気付いたのは、お客さんは結局和食を求めていて、和食を食べに来ているということです。クラシックのコンサートを聴きに来ているお客さんに対して、エレキギターの演奏を混ぜ込んでしまったら、どれだけ超絶技巧でも帰り道には「今日は何を聴きに来たんだっけ」と、なりますよね。食後感の着地をおかしくならないようにするには、踏み出すにしても半歩以内にしないといけません。その加減がようやくわかってきて、コース構成もついこの前まではもうちょっと尖っていたというか、お客さまに寄り添えていなかったと今だと思えます。ユニークネスを担保し、かつシンプルにするには基礎から徹底的に落とし込み、按配を絶対的に支配する必要があります。僕は料理の説明をする時に「じゃがバターのめっちゃうまいみたいなやつ」みたいに、”身近な食べ物の超美味しい版”といった表現をすることが多いんです。料理の美味しさの柱と対峙しどこが邪魔でどの部分を強調してあげるべきかを考え抜いて煮詰めあげていく、というアプローチを普段から習慣にしているからかもしれません。

自分に課すハードル

予約困難店と言われるようになってきてからは、たとえば、秋口のお客さんだと「次回、来年1年のお席はすべて埋まってます」という状況が普通になり、お客さんのほうも「では再来年の席は?」と聞いてくださいます。最初は嬉しかったのですが、半年先まで予約が埋まり、1年先までになり。もちろんありがたいことですが、お客さんの顔ぶれも固定されてきて、この人たちと会話するのが死ぬまで続くのかなとか思うと、急に息苦しくなりました。一人ひとりのお客さんの来年4回の予約がもう入っていて、次の年の席まで気にかけてくれているとなると、新しい料理の発想が生まれてこなくなりそうな気がしました。今後、ミシュランの三つ星などの評価をもし取れたとしても、それはこれまでのご褒美であって未来への成長の証ではありません。料理そのものや、お店としての新たな挑戦を乗りこなしてこそ、あの「ドラクエ」でいうレベルアップの「ファンファーレ」が聞ける気がするのですよね。口コミサイトのヘビーレビュアーの方をはじめとした厳しい批評にもありがたく揉まれ続けてここまで来たので、レベルを維持し続けるための緊張感はありますが、2年先まで予約が埋まってしまうとなるとやはり甘えに繋がる可能性があります。これでは怠け癖がついてしまうと思い、3ヶ月よりも先の予約を取るのをやめました。そうした方が甘えがなくなり、良い緊張感を継続できるなと。その日の料理が「あれ?」と思うものであれば次は予約しなくてもいいんです。次もまた行きたいと思っていただいてはじめて予約をしていただきたいのです。ルーティンの予約もありがたいですが、それ以上に大切な人を連れて行きたくなるようなお店でもありたいですしね。 

ゲームの「カセット」を変える時期

慎重に機を読むのは昔からなのですが、新しいアイデアを出し続けるためにはそろそろゲームのカセットを変えないといけないと思っています。今だとソフト、というんでしょうか、「ドラクエⅥ」の次は新しいシリーズの「Ⅶ」をやりたくなる、ハードがスーパーファミコンからプレイステーションに変わるかもしれない。今の自分には外界からの刺激がさらに必要だし、精神的には競争状態に身を置くことが大事です。競争することで、自分の料理が気づかないうちに凝り固まってしまっている、という状況に陥らずに済みます。この春「フォーシーズンズホテル丸の内 東京」のメインダイニング「SÉZANNE」と1日限りのコラボレーションを行いました。コラボは「SÉZANNE」のシェフのダニエル・カルバートがお店に食べに来た時にInstagramで繋がったことがきっかけで実現しました。その時に自分の料理を気に入ってくれたのかは緊張しててあんまり覚えて無いですが(笑) ダニエルとは、素材への向き合い方を筆頭に料理へのアプローチに自分と似通っている点があります。他のシェフとのコラボレーションは初めてで、ゲームの話の通り、少しずつ外に目を向けていくべきタイミングだったのでいい機会になりました。競争かつ共創することで、自分の料理は通用するレベルなのか、間違っていないか、改めて確認するチャンスになります。お互いの料理を交互に出すだけというコラボレーションだとそうはいかないですし、ファンサービスのためではないんです。ジャンルレスで同じような真摯なアプローチで料理と向き合っているシェフと取り組みたかったのですよね。「SÉZANNE」とのコラボレーションのあとには、名古屋からニューヨークに進出した寿司屋「吉乃 NEW YORK」とご縁があり、ニューヨークでのポップアップイベントにも行ってきました。コラボレーションではなかったのですが、吉乃のシグニチャーの、上から炭火で炙る鯖寿司だけはお願いさせていただきました。お客さんは全て外国の方で、「吉乃 NEW YORK」のVIP顧客の方々でした。さて、ニューヨークで料理を作るとなった時に選択肢は2つ。ひとつはニューヨークのお客さんの好みを想定してそこにアジャストしていくというオプション、もうひとつは自分の料理のまま勝負を賭けに行くというオプションでした。たとえば西麻布というエリアにアジャストさせるなら、キャビアやトリュフも出すべきなのかもしれないですが、仮にそれを出して「こんなの求めてないんだよね」とかお客さんに言われてしまうと「いやいやこれは本当の僕とは違います」と説明したくなってしまう。さらにその人は二度と来ないでしょうから、それは苦しいですね。
ホームにおいても自分の頼っている柱がブレるとキツくて、慣れない環境においてはその柱がより大事になってきます。フグの唐揚げにオーロラソースをかけました、みたいな僕なりのわかりやすいアプローチで臨んで「この日本人マジでわかってねえな」と思われたらそれで終わりです。実際にはやらないですが、逆にブラヴォー、アメージングってそれを褒められても、違うと思うことをずっとやり続けることになるならニューヨークでの展開に先はないな、とは思いました。なので、どっちって言われた時に、西麻布でやっている今まで通りの料理をニューヨークに持っていこうと。塩味も変えない、それでダメなら反省会をしてそこからまた学べばいい。やったはやったもののそこから得られるものが少なかったら、それが一番残念なことなんですよね。野菜は生で持ち込むと違法になってしまうので、加熱して真空パックして持って行きました。3日間だけだったのでそういう方法でなんとかなりましたが、いざ実際に現地で通常営業をするとなると筍や花山椒などは難しいでしょうね。

ニューヨークへの思い

結果、意外なほど手応えがあり、近い将来ニューヨークにお店を出したいなという気持ちが湧いてきました。ニューヨークにはフキノトウもないし山椒もないし、紫蘇もない。和食をやるハードルは低くありません。利益や自由になる時間のバランスを考えると、自分がオーナーとして経営している西麻布のお店だけをやっているのが一番ストレスは少ないです。イニシャルコスト、パートナーとの取り分、ニューヨークでの生活にかかる費用、サービススタッフ、洗い場など細かく分かれている雇用区分、高い人件費、様々な人種を雇わないといけないなど。そういうルールにアジャストしながらやっていくのは大変な話です。ただこの先「山﨑」というお店を世界で通用するブランドに育てていくことをイメージすると、お店の売上だけではない横への拡がりみたいなものを作っていく必要があります。たとえば大企業と手を組んで”YAMAZAKI”というブランドの裾野を世界に拡げていけないものかと。アメリカに出てうまくいくと、日本だと考えられない跳ね方をしてくれる可能性も出てくるでしょうし、うまくいっても、うまくいかなかったとしても自分の人生にも幅が出てくるだろうなと。有り難くも挑戦できる状態で、リスクを取らずのうのうと過ごしたくはないです。これも戦略的打算かもしれないですが(笑)、ニューヨークで成功したら他の世界の大都市にも行きやすくなります。まずはシンガポールもありかもですが、どちらかを選べるならニューヨークを選びたいですね。今35歳なんですけど、40歳まであと5年、定期的にニューヨークを訪れるようにしてその頃には目処をつけたいです。西麻布のお店は任せられるスタッフがいるとベストではありますが、誰かが長くそのポジションにいて派閥みたいになるのもよくないので、3ヶ月で西麻布とニューヨークを交代制でまわしていく体制を作りたいです。そちらのほうがスタッフの成長にも繋がると思いますし、”TEAM JAPAN”として実現していきたいですね。ちょうど先日「SÉZANNE」が「アジアのベストレストラン50」の2位に選出されました。経験値の高いレストランレビュアーたちの投票で決める「OAD北米トップレストラン」のランキングにおいて「吉乃 NEW YORK」も5位に選出されています。山﨑はアメリカでの知名度はまだまだなので、ほんとにニューヨークに行くならば、自分たちもそういうアワードに食い込んでいきたいです。ここからは、世界にもさらに目を向けて精進を重ねていきたいと思います。

山崎志朗氏 プロフィール
1987年、東京都生まれ。専門学校卒業後、紹介制の赤坂「もりかわ」で8年間修行を積んだ後独立。2018年8月に「山﨑」をオープン。オープン後、3ヶ月でミシュランの一つ星を獲得し人気店としての礎を確立。ワインにも造詣が深く、自身もソムリエの資格を持ち、日本酒に加えてお店ではワインも提供している。

懐石・会席料理

山崎

東京メトロ千代田線 乃木坂駅 徒歩6分

山本憲資

広告代理店、雑誌編集者を経てSumallyを起業。スマホ収納サービス『サマリーポケット』を展開。先日代表を退き、顧問に就任したばかり。食や音楽、現代アートなどへの造詣も深く、様々な媒体で時折記事の執筆も手掛けている。2020年夏より軽井沢に拠点を移し、森の中でスマートリモートライフを満喫中。

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