Amazonギフト券が当たる KIWAMINO読者アンケート実施中 Amazonギフト券が当たる KIWAMINO読者アンケート実施中

名店「4000 Chinese Restaurant」菰田欣也氏に聞く、お客様を喜ばせる四川料理とは

日本の料理業界の礎を築き、食の文化を広めてきたレジェンドと言われる料理人たち。
そんな有名料理人にタベアルキスト・マッキー牧元がインタビュー。
第2弾は、日本中華の重鎮「赤坂 四川飯店」陳建一氏のもとで約30年間にもわたりグループを支え続けた後、独立して火鍋専門店「ファイヤーホール4000」や「4000 Chinese Restaurant」をオープンさせた菰田欣也氏に、四川料理の極意からこれからのレストランに必要なことまで、様々なお話を伺いました。

「料理の鉄人」の技に魅了されて進んだ中華料理の道

-まずは料理人を目指されたきっかけを教えてください。

小学生の頃、兄がよくスパゲティを作ってくれたんです。それが美味しくて自分でもやってみようと思ったのが、料理に興味を持ったきっかけです。
中学卒業後、すぐに料理の道に入りたかったのですが、親に「高校は行け」と言われて。高校卒業後、大阪あべの辻調理師専門学校に1年間行かせてもらいました。

-なぜ中華料理だったのでしょうか?

もともとはフレンチの道に行きたかったんです。和食・洋食・中華と習って、和食も洋食も美味しいなと思ったんですが、特段に中華が美味しく感じました。どうせ学ぶのであれば、自分がすごく美味しいと思うものを学びたいと思ったんです。

-卒業後すぐ、赤坂の「四川飯店」に入られたんですね。

赤坂 四川飯店

外来講師として「四川飯店」の陳建一さんが来られて、缶詰のマッシュルームを花切りされたんです。その鮮やかな技を見て「この人の下で学びたい」と思いました。

-その頃の「四川飯店」は、どのようなところでしたか?

陳建民さんがまだ一番鍋としてやられている時代で、毎日料理を作られていました。朝はいつも決まった時間に来て厨房をぐるりと回り、また何時かに来て鍋前に座って周りの仕事を見て、オーダー数が増えて来た頃に作り出す。
そして、その日の賄いで食べたいメニューを渡して出て行かれるんです。調理場のみんなとは食べずに事務の方と食べ、食事が終わると「今日は誰が作りましたか!?」と、怒ったように言う。恐る恐る「私です」と手を挙げると「美味しかったです」と仰る(笑)。そんな茶目っ気がある方でした。

-菰田さんはどのような順序で仕事を覚えていかれたのですか?

最初はホール、次に洗い場、鍋洗い、デザート、野菜、なまこやフカヒレなどの乾物戻し、デシャップ(伝票さばき)、その後まな板に行って、前菜を作り、宴会のまな板、それから麺上げなどの脇鍋で勉強しました。

-中国料理は板の仕事が大切ですね。どうやって習得されたんですか?

赤坂 四川飯店「雲白肉(ウンパイロウ)」

基本、板は1日中切るものが絶えることがない。あれだけ切って、上達しない奴はいないです(笑)。当時は仕込みの段階で切っておくことはなく、注文が入ってから切っていました。「雲白肉(ウンパイロウ)」であれば、生肉を茹でるところから始め、茹で上がったら横に薄くスライスしますが、技術がないと切れないんですね。
また、きゅうりやセロリも直前に切ります。今はそんな非効率なことは、どこもしませんけどね。

-すべて注文が入ってから、スタートするんですね。

例えば「粉蒸牛肉」というもち米を肉にまぶした料理は、注文が入ったら、下に敷くキャベツやジャガイモを切るところから始めます。
だから、オーダーされたら「40分から50分かかります」と伝えるんです。鍋の人間も、事前に調合したタレを用意せず、その都度味を入れていました。それで料理を覚えられるんですね。僕は、デシャップの頃から先輩が作る様を見て真似していました。

-傍から見て、自主練していたわけですね。

例えば「エビチリ」のタレを作って、高い海老の代わりに卵にかけて朝ごはんにするとか。ごはんは3食賄いなので、作る機会が多いんです。
また上の人が休憩時間の時に担々麺の注文が入ったら、勝手に作ったりもしていました(笑)。

-そして最終的には、鍋を振れるようになっていく。

陳建一さんが「料理の鉄人」に出られてから、ガラリと変わりました。元々フリーのお客様は少なく、宴会ばかりでしたが「料理の鉄人」に出てからは、グリルも毎日満席になりました。その頃は今のように火力が強くない火口で、3フロアー分、2名から40名分の宴会までを3人で作ってました。
つまり300名分を3人で回していたのです。しかも当時の宴会は、18時か18時半スタートなので、全部の注文が一気にくるんです。あれで相当鍛えられました。
まず、煮込みものの準備をし、油の温度をキンキンに上げておいてからスタートします。鍋に入れる食材の量が多いのに火力が弱いので、油を上げておかないとスタートダッシュをかけられないんです。

-麻婆豆腐が人気になり出したのは、その頃からですか?

赤坂 四川飯店「麻婆豆腐」

そうですね。宴会メニューに麻婆豆腐が入るようになったのはその頃で、それまではランチのみ、最後に辣油も花椒もふりませんでした。そして「四川飯店」で13年間修業した後、立川にできた、日本初の麻婆豆腐専門店を29歳で任されました。

-あのお店は人気でしたね。

凄かったですね。最初は「なんで料理が作れるのに麻婆豆腐ばかりを作るのか」と固辞していたんですが、勉強になりました。全22席で16坪、9時間の営業で27回転もするんです。だから1日600食近くの麻婆豆腐を作る。
1日の中でピークが無く、大鍋で1回に11人前できるので、10分に一鍋作っていました。お店が狭くて保管する場所もないので、豆腐は1日2回の配達、仕入れもキャンセル方式にしました。

-杏仁豆腐も話題になりましたね。

そうなんです。その頃の杏仁豆腐は、ひし形に切って器に入れて保冷していましたが、置く場所がなかったのでバットに入れて固め、出すたびに毎回すくって器に入れていたら、こだわりの杏仁豆腐って言われちゃいました(笑)。
あのお店は、カウンターから厨房が見えるのも良かったですね。お客様が目の前でご飯を何杯もお代わりしちゃう姿とか、辛い顔をして食べている姿を見て、商売ってものを知ることができました。

-その後「セルリアンタワー東急ホテル」の「スーツァン・レストラン陳 渋谷店」に行かれたのですね。

31歳で設計から開店準備に入り、32歳で開店です。本当は独立したかったんですが「お前がやらないのであれば断る」と言われて、やることにしたんです。
熊本や北海道など様々なホテルの厨房を見せてもらい、全部任せるからと言われて……。NOとは言えませんでしたね。
「四川」と店名に付けずに「スーツァン」という名前にしたのも僕です。ホテルの中国料理は「広東料理」が主で、当時の四川料理は「シェラトン都ホテル」しかなかった。なので、ホテルに入るレストランの店名に「四川」とつけると「辛いんじゃないか」と、万人受けしないと思ったんです。また、本店とはポーションも変えてコースを軸にしました。

-設計から関わられたということですが、特にこだわられたところはありますか?

オープンキッチンです。当時大きな中国料理店で、オープンキッチンの所はあまりありませんでしたが、僕は食べている人を見たかった。本店では「〇〇さんが来られました」と厨房に伝わってくるのですが、性別も食事の量も年齢も、お酒を飲んでるかどうか、食べる速度などもわからないので、お客様情報がたまっていかない。それなら自分が見るのが一番です。
もう一つ、お客様が入り口から入ってきて、僕を見えるように設計しました。そうすればご挨拶に出れない時でも挨拶ができる。「料理の鉄人」を通して、エンタテイメント性という要素が増えていった時代でもありましたからね。

全てはお客様に喜んでいただくため、ニーズに合わせた料理を作る

-その後総料理長になり、3年後に独立され「ファイヤーホール4000」を開業します。最初に火鍋屋をやろうと思ったのはなぜですか。

商売をやるのに一番大切なことは「儲ける」ことだと思うんです。若い人に「お店をやって何がしたいの?」と聞くと「自分が思う料理を作りたい」という人がいる。その時は「やめたほうがいいよ」と言います。“利益を出す”、これ絶対です。そうじゃないと、お店を閉じなくちゃならないからです。この火鍋屋は一点の迷いもなく、成功する自信がありました。

-当時の火鍋は群雄割拠。競争が激しかった中でも、勝算があったんですね

自分が食べたい火鍋がなかったんです。豚肉も冷凍で、野菜も鮮度が悪い。きちんとした食材でやったら、共感する人がいるんじゃないかと始めたら、最初からお客様もたくさん来てくださいました。今でもランチは100人くらい来るほど。

-五反田のあの辺りは飲食店の過疎地帯で不便なのに。

地の利での不安はなかったです。最も商売は何が当たるかわからない、人的な問題と料理のクオリティーなど、小さいことの積み重ねだと思っています。

-「ファイヤーホール4000」がヒットして、五反田、麻布十番と虎ノ門ヒルズ、そして西麻布「4000 Chinese Restaurant」を開店されました。

五反田のお客様から「もっと高級な火鍋屋をやってよ」と言われ「麻布十番にファイヤーホール4000」を開業しました。このお店は、五反田にお店を出す前から構想にあり、お客様にもたくさん来て頂きました。その後「4000Chinese Restaurant」を開業、1年後にコロナ禍に直面したんです。
予測しなかった出来事が、料理人人生で初めて起こり、ここで学んだことは、大きいと思っています。
その頃、初めに数件のキャンセルの連絡を聞いた時は対岸の火事かと思っていましたが、次第にキャンセルが続き、営業の規制が入り、料理人および経営者として問われたんです。経済産業省に電話したら「決められた規定の中で雇用を守ってください」と言われて腹を括れました。毎日2名、4名くらいのお客様に来ていただき、幸いにして0の日はなかったんです。週1で来るお店でもないのに5ヵ月間、毎月来ていただけるお客様がいて、明らかにお店を応援してくれているのを感じたこともありがたかったです。
また、元々夜の営業を2回転していなかったのも良かったです。気がつけば、知らない間に注文される料理の単価が上がっていきました。テイクアウトの準備や肉の販売許可、包材の手配など、夜はこのお店をやりながら昼に駆け回っていて。コロナ禍は忙しかったです。

-「4000 Chinese Restaurant」では様々な創作料理を出されていかがでしたか。

今思えば必死で。お客様には来ていただいていましたが、最初の1年間は思うようにいきませんでした。
新しいものを生み出そうとするのは簡単ではないし、お客様もついてこない。想いが強すぎたのかもしれません。だから当時の料理を見ると、笑ってしまうほどです。

-力が入りすぎたのですかね。

赤坂 四川飯店「青椒肉絲」

「穴がないように」と考え、すべてに直球勝負していました。スプリットが怖くて投げられませんでしたが、今は力が抜けました。
「スーツァン・レストラン陳」では、和牛の真空仕立てとピーマンを別に火入れして作る「青椒肉絲」が大人気で、お客様から「もう一回作って」と言われたことがあったのですが、あれは過去の料理で、今は目指している方向性が違うと、作らなかったことがあるんです。しかし「どうしても」と言われて作ったら、めちゃくちゃ喜んでもらえて。
「こんなに人が喜ぶ料理を作れるのに、作らない選択肢って何だろう」と思ったんです。お客様が求めているものを作るのが、自分たちの仕事。そこで大きく反省しました。自分はそうなりたくないと思っていたのに、どこか料理人としてのエゴに突入していったなぁと。

-今お休みも多いですよね

「4000 Chinese Restaurant」は昼の営業はなく、夜も2回転せず、月に8回休んでいます。これは人が雇えない時代が来る、今後の飲食業が目指す道だと思います。僕が働いている頃は、週2回休むお店はなく、それに対してなんの疑問もなかったですけどね(笑)。

基礎を積み重ねるからこそ評価に結び付くレストランの経営

-これからお店を持つ方や若い方に、伝えたいことはありますか?

弟子には「でんぐり返しを死ぬほどやれ」と言っています。でんぐり返しができない奴が、ひねりを加えて着地できないだろって。目をつぶってもでんぐり返しができるくらいになれば、可能性が広がります。鍋を綺麗にする。包丁を常に切れるようにしておく。基本的なことができる奴は、料理が上手くできる。自分の周りを綺麗にできる奴は、料理も綺麗に盛れる。これ間違いないです。
無駄もないし近道もない、結局、人間の気持ちが左右する。僕も常に自分に喝を入れて、昨日の自分に勝たなくちゃいけないと思っています。
また、商売はマラソンなので、3年後や5年後が大事です。お店を出した時の情熱がピークで、その後はいかに自分にカンフル剤を打っていくかです。成功しても3年目が節目で、1年目で成長し2年目で去年の反省を生かし、3年目で色々揃ってきたよねとなり、4年目のスタートからそのお店の色が出る。また、スタッフが成長して初めてお店の評価になると思います。

-菰田さんは、料理人と経営者の面がバランスよく一体になられていますね。

「飲食店は中途半端な気持ちで手を出すな」と、よく言っています。桁の違うギャンブルをするわけですからね。トラブルはしょっちゅうです。でも懐が深い人間、色々なことを飲み込める人間でありたいと思っています。

-最後に、ご自身が今後考えられていることはありますか。

54歳になり、自分なりの終活を考え始めています。スタッフたちのこと、自分の抜け方、引き継ぐことの考えですね。次の世代に何か残してあげなくちゃいかない。今も各店舗に顔を出さず、僕がいないと困るのは「4000 Chinese Restaurant」だけです。もちろん、予約と数字だけは見ていますが、料理以上に接客が大事だと思うので、接客重視でやってきています。
オーナーではなく5店舗の経営をやっているのですが、まず社長が元気じゃない会社は嫌じゃないですか。苦しい顔して商売するならしないほうがいい。これからも茨の道かもしれませんが、人生楽しみながらやりたいと思います!

***
菰田欣也氏 プロフィール
1968年東京都品川に生まれる。 品川の小中学校、大崎高校、を卒業。
その後、大阪あべの辻調理師専門学校へ入学。専門学校の授業にて陳 建一氏と出会う。
1988年4月、赤坂四川飯店へ入社。 2001年セルリアンタワー東急ホテルにある「スーツァン・レストラン陳 渋谷店」の料理長就任。2008年7月「スーツァン・レストラン陳」「四川飯店グループ」総料理長就任。
独立後、現在は「ファイヤーホール4000」「4000 Chinese Restaurant」のオーナーを務める。
他、専門学校や料理教室の講師、イベントや料理番組等に出演。
***

中国料理

4000 Chinese Restaurant

東京メトロ日比谷線 広尾駅 徒歩11分

20,000円〜29,999円

※こちらの記事は2023年05月10日更新時点での情報になります。最新の情報は一休ガイドページをご確認ください。

マッキー牧元

「味の手帖」編集顧問。 国内、海外を問わず、年間700食ほど旺盛に食べ歩き、雑誌、テレビ、ラジオなどで妥協なき食情報を発信。近著に「超一流サッポロ一番の作り方」(ぴあ)がある。

このライターの記事をもっと見る

この記事をシェアする