目黒「鳥しき」池川義輝氏に聞く、1本1本の焼き鳥に込められたこだわりとその信条とは

日本で最も予約困難な焼き鳥であり、国内外多くの方々から愛され続ける焼き鳥の名店「鳥しき」。今回は、サラリーマン時代を経て焼き鳥の世界に入られた池川義輝氏に、「鳥しき」ならではの焼き鳥のこだわり、今後の展望など多岐に渡ってマッキー牧元さんにインタビューしていただきました。

サラリーマン時代を経て焼鳥の道へ

-料理人を目指したきっかけをお聞かせください。若い頃から、料理の道を目指そうと思われたのですか?

幼い頃は料理との接点はなく、テレビの影響からプロ野球選手や刑事になりたいと思っていていました。ただ当時住んでいた江戸川区の小岩という町は、典型的な下町で職人も多かったですし、商店街が賑やかで、いつも学校帰りの途中で駄菓子とかもんじゃ焼きを買い食いしていました。その1つとして身近にあったのが、焼き鳥です。1本20円や30円ぐらいで、高くても50円。お小遣いで買える、おやつみたいな感じだったんです。自分のソウルフードとして、中学生や高校生になってもよく焼き鳥を買っていました。タレの味わいに、家では味わえないものがあって、身近ながら特別な食べ物でしたね。

転機になったのは大学時代の夏休みに、静岡の浜松で焼鳥屋をやっている友人の実家に遊びに行った時ですかね。その店の手伝いをさせてもらった時に、小さい頃からの焼き鳥との思い出やその体験がフィットして、焼鳥屋という商売の魅力を感じました。その頃は、バブル崩壊後の就職難もあり、先行きも不安で、サラリーマンをしていいのかわからない状態でもあったんです。そんな中、接客をする面白さや、焼鳥を食べている美味しそうなシーン、お客さんの幸せそうな顔に触れ、焼鳥屋って面白そうだなと思うようになったんです。

-でもすぐには焼鳥屋にはならなかったと。

はい。その友人とも、大学を出てすぐに焼鳥屋の修業に入るのは、違うのではないかと話していました。その頃の焼鳥屋は、セカンドキャリアというか脱サラした最後の場所みたいな、あまりポジティブな感じではなかったんです。ただその頃、アルバイトで得たお金で色々食べに行っていたんですが、職人さんが怖くて、お寿司屋さんに行っても、何を頼んだらいいのかもわからないし、職人さんの圧で緊張して、味の記憶も残らなかった。だからもし自分が焼鳥屋をやるなら、お客さんに根ざしたような焼鳥屋にしたいと思い、そのためには、1回社会に出た方がいいかなと思ったんです。社会に出ながら自分が目指す焼鳥屋を見つけようと、いったん就職をしました。

-就職も焼鳥屋になる基盤として考え、勤められたんですね。

はい。人が何を求めているかという勉強をしようと東京で人材派遣の営業を始めました。そして休みの日は100軒ぐらいを食べ歩いていたんですが、その中の1つが修業先になった中目黒の「鳥よし」です。その頃「バードランド」の和田さんが雑誌で特集されていて、阿佐ヶ谷に行ったのですが、その日は予約が満席で入れなかったんですね。そして「鳥よし」に出会い、衝撃を受けました。僕が知っている下町の焼鳥屋は、職人がみんなくわえタバコで焼いていて、おじさんのたまり場でした。そんな中「鳥よし」に行った時に、居酒屋さんの一品としての焼き鳥ではなく、ワインと一緒に楽しめる料理の1つとして焼鳥を提供されていて、衝撃を受けました。自分もこういう焼鳥屋を目指したいなと思い、修業させてくださいとお願いしました。

-確かにその頃は「バードランド」や「鳥よし」くらいしか、ワインを出しているところはなかったですね。

親方はフランスでも焼き鳥屋の経験がありましたし、女将さんもフランス人でしたから、親方は焼き鳥にはロゼが合うと言っていました。

-当時、焼鳥屋でデートできる店は、六本木の高級焼鳥屋でもできるけど、年配の男性が多くて雰囲気が違うし、ある意味「鳥よし」くらいしかなかったですね。

そうですね。下町の親しみやすさもありつつ、きりっとした雰囲気もあって、お客さんもそれを意識して来られていました。

-修業時代で印象に残っていることはありますか。

外から見る焼き鳥なんて、正直串を刺して焼くだけなんで、そんな時間かかんないだろうと思っていました。2、3年ぐらいで全部覚えられるんじゃないかなと舐めていましたね。
それが1年間鶏に触らせてもらえないで、追い回しをずっとやっていました。ただ僕は料理屋に入るのも初めてだったので、比較するものはなく、焼鳥屋ってそういうものだなと思っていました。ただ肉に触れさせてもらえなかったんで、なぜかなっていうことをずっと考えていて、本当にこの店で良かったのかなとか思ったりもしていました。そうしたら先輩たちが、次第に辞めていって、少しずつ仕事が回ってくるようになったんです。だから途中からは、早く先輩たちが辞めないかなと思ってました(笑)。後は、自分の仕事を早めに終わらせたり、先輩の仕込みを見たりとか、自発的に少しずつやるようになりました。

-僕も以前仕事で、「バードランド」の和田さんに焼き鳥仕事を指導して頂いたことがあったんですが、串打ちが1番難しかったです。一応刺すことはできるんですが、波打って、どうやっても凸凹になってしまう。

そうですね。しかも同じ部位を、50本以上刺しますんで、スピードも大事です。綺麗に刺すのが難しい。修行時代は焼き職人に「これは焼きにくい、誰が刺したのか」と、指摘されました。「焼こうとするとくるくる回る」「中心に刺さっていない」とか色々言われながら、どうやったら焼きやすいかを考えながら仕事をしていました。大体は教えてくれるんですけど、細かいところはお前が考えろという時代だったので。やはり懸命に考えないと身につかないですね。

-それでようやく1年たって、肉を触らせてもらえるようになったのですか?

はい。1年経って肉を触らせてもらえました。ただ焼きはまだまだで、実際やせてもらったのは、入ってから4年目ぐらいですね。

-4年目でようやく焼き台の前に立っていかがでしたか。

焼くのはさらに大変で、もう炭にもお客さんにも翻弄されながら、毎日奮闘していました。
そしてカウンターだったので、間の取り方、出すタイミング、お客さんの会話を邪魔せずに出すということも考え始めました。焼く技術も大事ですが、タイミングを計りながら焼いていくということが難しいんですよね。

-どんどん食べるお客さんもいれば、ゆっくり少しずつ食べていくお客さんもいますよね。

そうなんですよ。それを勉強できたのも、焼きを始めてからです。昔の下町は大皿で20本ほど盛って出していたんですが、それを1本ずつ出していくというのも難しかったです。

-4年目から焼き始めて、最初は大変だったと思うのですが、まだ完璧とはいかずとも、何か見えてきたっていう時期がありましたか。

初めはなんとなくの感覚で焼いていたのですが、これって意外とロジックがあるんだなと気づき始めて、炭の組み方や焼き方とかの説明も言語化できるということに気づいたのが、5、6年目ぐらいですかね。ただ良いものを出せばいいってことではなく、飲食店の原点である居心地といいますか、食べた後に「あれっ?楽しすぎてもうこんな時間だ」と、思っていただければ嬉しいなって。最初の4年目までは、焼くことだけで精一杯だったんですが、少し余裕が出てくると、そういうことを感じはじめました。

-ロジックもそうですけども、来ているお客さんの目的がそれぞれ違うことも感じ取って、焼きに活かすということですね。

カウンターって1枚板で繋がっていますが、個室なんです。お客様の人数次第で変わる空気感を僕らが悟るということを1番大事にしたいですね。例えば大事な話をされているお客様には、黒子的に会話を邪魔しない串の出し方であったり、1人の方でお話をされたいという空気だったら、僕らの方から言葉をかけたりといった、お客さんの心をどう読むかっていう部分と、焼き鳥の串一本一本の声をどう聞いて焼き上げるのかという部分が重なり始めたのがその頃でした。

-そうでしたか。それで独立なさったんですね。

少しずつ自分の形というのが見えてきたので、親方にもそろそろいいんじゃないかと言われたのが、ちょうど7年目ぐらいでした。それが27歳の時、2007年にお店を開業しました。

こだわりの1本を作る上での仕入れ、串打ち、火入れ

-独立するにあたって、串や炭、焼き台、鶏の種類など、ゼロから決められたんですか?

そうですね。まずはやるにあたって、いろんな鶏を仕入れてみたんです。結果、福島の伊達鶏という「鳥よし」も使っている同じ鶏を使わせていただくことになりました。
試せる時間が十分にあったので、串の刺し方や、炭の組み方、タイミングも自分のフィルターを通しながら、少しずつ変えていきました。

-伊達鶏は、他の鶏と比べてどこがメリットだったのでしょうか?

うちはおまかせストップ制なので、色んな焼鳥の部位を食べていただきたいという思いがありました。そこで重い串よりは、軽く入っていくような串の方がいろんな部位が食べられると思ったのです。伊達鶏は量も食べられて、1週間ぐらい経つとまた食べたくなるような鶏です。今みたいに、何ヶ月先まで予約取れないということはほぼなかったので、大体1週間か2週間後は、また皆さんお店に来ていただくみたいなイメージで鶏を選びました。

-いい意味で個性が優しいんですね。

そうです。あまり出過ぎないっていう感じで、レバーもフォアグラのようには重くなく、自分のスタイルにすごくあった鶏かなと思います。

-では次に火入れのことをお聞きします。今まで「鳥しき」の紹介では、近火の強火で焼くことばかりがクローズアップされて来ていますが、その前に焼鳥屋は、炭の力や炭の火力を見極める力が大事だと思うんですが、いかがでしょう。

仰る通りです。ただ強ければいいというものではなくて、元々冷蔵庫から冷たいものを出してすぐ焼くので、最初は温度が落ちついたところから焼き始めて、表面を少しコーティングさせながら、次第に強いところに持っていきます。
あと炭でもう1つ大切なのは、目に見えないその輻射熱というか、その流れをどう読み取るのかということだと思います。
炭を組むというのは、風の流れも計算しますし、串をどこに当てるかによって、火の入り方が全く変わるんです。ただ強い火っていうことではなくて、炭からくるエネルギーがどこなのかってことを見極めながら、焼くのが大事です。うちの串は中心に厚みがあって手前が薄くなっているのは、炭の組み方の形状で、火が均一に入るためにあの形状なんです。

-あの形は、炭の組み方から来ているのですね。

同じ厚みだと、手間取って火が入らなくなり、手元に火を入れるためには真ん中が焼きすぎてしまうので、そのバランスを考えながら、厚みや幅を考えて焼いています。強火という言葉はすごくいいのですけど、諸刃の刃でもあり、その分ストレスがかかります。それを僕らは内輪や火鉢とか金槌を使って、炭をコントロールしながら焼いていきます。

-それはかなり難しそうですね。

一瞬たりとも気が抜けなく、ちょっとずれるだけでも、まったく表情が変わってしまう。あと焼き鳥って、焼くと水分が抜けていくんですね。職人と炭の戦いって、水分を閉じ込めることとの戦いだと思うんです。
水分が抜けるということは、旨味をどんどん逃がすことになってしまう。遠火だと焼きやすいんですけど、見えないうちに、水分がどんどんなくなってしまう。だから食べた時には、どうしても水分が少ないような焼き鳥になってしまう。
一方強火の場合は、ストレスはあるんですけど、串を回しながら、団扇も使って表面上の熱を逃がしながら、輻射熱というか遠赤外線の熱をどれだけ入れていくかというところの勝負なんです。串を回しながら焼いていくと、コーティングされて、肉汁と旨味が逃げない焼き鳥になるんです。火入れは焼き鳥の1番のポイントです。

-いらっしゃったお客様には、どんな風にお店での時間を楽しんで欲しいと思いますか。

焼き鳥を好きになってもらう、焼き鳥のファンを1人でも多く増やすことが、僕の役目だと思っています。例えば、串を抜くか抜かないかという論争が2018年にありましたが、確かに串は抜かずに食べた方が美味しいです。ただ僕個人は、強要することなく、好きに食べて頂いた方が美味しいと思っています。僕が10代や20代の頃食べ歩いた時は、お店の流儀を否定しなかったですけど、あまりにも言われると萎縮してしまいました。
お客さんに聞かれたら「お好きにどうぞ」と答えます。ただ僕ら職人は、1番良い状態で出していますので、話が盛り上がって手をつけないお客様には「冷めないうちに召し上がってください」と、声をかけさせてもらいます。教育なんて言い方はおこがましいですが、最近は当たり前のことが当たり前じゃないということもあり、携帯をいじりながら串がきたことに全く気がつかないお客さんもいらっしゃるので、僕らも「これは何々です」とか、お声がけをして、説明を添えるようにしています。そういうこともしていかなくてはいけない時代になっているのかなと、思います。

世界に誇れる焼き鳥文化を広げていきたい

-昨今、焼鳥屋さんが非常に増えているじゃないですか。寿司の次は焼き鳥だという勢いで、飲食業界以外からの参入も増えていますしね。今後の焼き鳥業界に求められるものは何だと思いますか?

僕はまず入り口を広くすることがすごく大事だと思っています。僕自身も最初は焼き鳥なんてこんなもんだと思って、炭の上に乗せて焼いてひっくり返してタレをつけるなんて、1〜2年で出来るだろうと、舐めて入ってきた人間です。でもシンプルゆえに奥深く、1つたりとも同じものがないというところに、僕ははまってしまいました。焼き鳥と向き合っていくうちに人は変わっていくので、入り口は何でも良いので、まずはこの世界に入ってきてもらうことが大切だと思います。

-まだまだ焼きは面白くてたまらないって感じですか?

そうですね。焼き台の前に立つと、スイッチが入ります。ただ出来を確かめるために、ソースの味を途中で味見するように、焼いている途中で食べるわけにいかない。だから見たものを、自分の想像と感覚の中で、味というものに変換することが、常に求められる仕事だと思うんです。

-まさしくそうですね。ところでお弟子さんがたくさん独立されていますが、今で何店舗ですか?

数店舗です。元々自分と妻の2人で店を切り盛りして終わると思っていたので、まさか人を雇うようになるなんて考えてもいませんでした。ある時から、僕と同じように社会人から焼き鳥を勉強したい、やりたいっていう子が増えてきたんです。でもうちは焼き台が1台しかなくて、自分しか焼けない。うちでは1度も他の人間に焼かせたことはなくて、もし焼けなくなった時は、店をやめると決めていました。
ただし焼かないと経験は積めない。僕は焼き鳥屋って、料理人でもシェフでもなく、職人だと思っているんです。焼き鳥道というか、技術だけじゃなくて1つのものを掘り下げて考えるという、ある意味精神世界にも繋がっていくような部分がある。自分をどれだけ追求していくかによって味は変わるんだなっていうことを、自分自身が体験したんです。
だからお店を作るというより、道場を作るイメージでやっています。「鳥しき」という店名ではないですが、「鳥しき」がちゃんとやっている道場で勉強して、自分の店を持たせる。そういう風にしていくうちにお店が増えてしまったという感じです。

海外の若い子が焼鳥という日本の食文化を勉強したいと日本に来る、そういう流れを作りたいという気持ちもあります。とにかくこの焼き鳥文化を広げたいんです。というのが、海外に行ってイベントなどで焼くと、皆さんスタンディングオベーションされるんです。あるフランス人が、「私たちはささみも胸も、もも肉も丸ごと一緒に火を入れるのに、日本人って全部そのパーツを分けて串を刺して火入れをする、こんなアンビリーバブルなことをやっているのか」「お前たちすごいことをやってるな」って言われたんです。僕らにとっては当たり前ですが、このギャップを知った瞬間、もっと誇りを持って良い仕事なんだと気がついたんです。僕が焼き鳥の世界に入った頃って、どこも働く場所がなくて、最後に辿り着くのが焼き鳥屋みたいな時代だったんですよね。今では焼き鳥業界にも若い子がどんどん入ってきて、お店を持つようになって、若い子がその職業に憧れてきたというのは、社会的地位も上がってきたと思うんです。

-そうですね、かっこいいと思うことと、お金もちゃんと稼げそうだぞと思わなきゃ、若い子は入ってこないですものね。

そうなんです。僕は修業中に結婚したんですけど、家内のお父さんに「君は1ヶ月いくらもらってんだ」って言われた時に、答えられなかったんです(笑)。サラリーマンの給料の半分ぐらいだったと思うし「焼き鳥屋に嫁がせるのは心配」という商業だったんです。
そういう意味でも社会的地位じゃないすけど、焼き鳥業界も変えていかなきゃいけないかなと思っていたんです。たまたまそこに僕が時代とともにいたんで、僕は今の焼き鳥業界の中間管理職かなって。焼き鳥業界がおかしくならないように、自分の立ち位置から若い子にも勘違いさせないような部分を、ちゃんと作らなきゃいけないと思っています。お店も16年目で、今年自分が50歳になって振り返ると、今自分ができることはそういうことなのかなと思っています。

池川義輝 プロフィール
1972年、東京都生まれ。サラリーマン時代を経て、社会のルールや「どんなお店が喜ばれるのか」というお客さま目線のニーズなどを学ぶこと数年間。休日は100件以上の飲食店を食べ歩くなかで、中目黒にある焼き鳥の名店「鳥よし」で衝撃を受け、入門。7年間の修業を経て、2007年に自身のお店「鳥しき」を開店。2011年より現在までミシュランの星を維持し続けている。
公式:https://ge24900.gorp.jp/

【編集後記】
池川さんが焼く焼き鳥は、熱々で、命が迸るようなおいしさがある。だがそれよりもこの店に来ると、なんとも居心地が良く飲み過ぎてしまう、その秘密は、今回のお話でもお分かりのように、職人技としての焼き鳥道を極めようと奮闘されていると同時に、常にお客さんの心を慮って鶏を焼く池川さんの心根があったからである。さらにその思いは、日本食文化の1つである焼き鳥の社会的地位を高め、海外にも正しき文化を定着させたいという未来へと繋がっていた。

※こちらの記事は2022年10月12日作成時点での情報になります。最新の情報は一休ガイドページをご確認ください。

マッキー牧元

「味の手帖」編集顧問。 国内、海外を問わず、年間700食ほど旺盛に食べ歩き、雑誌、テレビ、ラジオなどで妥協なき食情報を発信。近著に「超一流サッポロ一番の作り方」(ぴあ)がある。

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