華やかな港町・神戸の住宅街に佇む日本料理店「玄斎」。和やかな空気の中、和食の真髄を感じられる料理を美味しいお酒と共に楽しめると評判の名店です。店主の上野直哉氏は、「浪速割烹 㐂川」上野修三氏の次男であり、「菊乃井」にて修業された経歴の持ち主。地元・大阪や修行先の京都を離れ、神戸での出会いや魅力、料理に対する想いを伺いました。
目 次
大阪、京都での研鑽を経て、神戸で魅せる「自然体」の料理
―「KIWAMINO」では、以前「浪速割烹 㐂川」の上野修三様にもインタビューさせていただきました。料理人になることはやはり子供の頃から意識されていたのでしょうか。
うちは一切親から料理業を継いでくれと言われたことはないんですね。
ただ、親父が休みの日に美術館や骨董市といった仕事に関連する場所に連れていってくれたことが多く、自然とそういうものに興味が沸くようになりました。
高校に進み、2年生の時に進路について多少悩んだのですが、大学に行くより料理の道に進もうと。選択を迫られたというよりは、自然とそうなっていったと思います。
当時は料理の修行に出て「他の店の竈の飯を食う」という時代でしたので、高校卒業後は京都のお店(「菊乃井」)にお世話になりました。
―修業時代、「菊乃井」の村田吉弘さんから習ったことで心に残っていることは?
思い出すと、涙が出るくらいどんくさかったですね。村田さんには「師匠と弟子の関係ではあるけれども、店を持てば一国一城の主をやっているわけだから横並び」と言われましたが、そんな感覚になるのには程遠いと思うほど。
村田さんが3代目の主人としてスタートし、鼻息の荒かった時期。ちょうど「菊乃井 露庵」の店舗を改装なさっていて、9月のオープンに合わせて入ったので当時僕が一番下の弟子でした。
新しい舞台を切り盛りする時に弟子が来たもんだから、皆大変でした。今になるとそんな余裕がないことも分かりますが、自分もしんどかったですね。
先輩には恵まれて、失敗してへこんでいるときでも飲みに連れていってもらい朝方まで相談にも乗ってもらいました。翌日はゼロからリセットして頑張っていこう、ということがあって、だから続いたんだろうなと思います。
―神戸という土地で「玄斎」を始められたのにはどんな理由があるのでしょうか。
神戸はおしゃれな街だし、大阪のようにスピードが速く過ぎるわけでもなく、ゆったりしていると思ったんです。地理的な条件もそうですが、地域性を肌で感じてお客様に来てもらうのが本来の流れかなと思っていて。うちの弟子が営む「割烹 道下」が在る場所に、以前「ちょぼいち」というお店があって、副料理長として入らせていただきました。料理の勉強はできたけれど、数字や商売の勉強をしてこなかったので、オーナーさんが別にいる所で覚えたいという気持ちもありました。
2年程お世話になって神戸の地域性や好みを知り、本格的に独立して神戸でやろうと思うようになりました。ただ紆余曲折あって、一度親父の店に戻ったこともありましたし、あの当時の4~5年は人生の中でも一番考えた時期でしたね。
―お店を始めるのは大きな決断ですよね。
後から大きな決断だったなと思うんですよね。「料理人は店を持つ」ということを目標に掲げてやってきましたが、独立は結婚と一緒で、考え過ぎたらできない。料理人としてちょっと天狗になっているというか、多少浮ついた気持ちもないとできないんですね。
今の子は堅実な考え方なので、料理の仕事に就きたい気持ちはあっても失敗したくないから天狗にもならないし、独立も結婚もしないのかなと思います。
―実際にお店を営まれる中で、神戸ならではの特徴や料理に対する反応の違いはありますか?
店を始めた頃は、親父の店をモデルにまず大阪と同じようなものをもっていきました。大阪の場合は当時(17年前)コースと単品を頼まれるお客様の割合が半々で、そういう献立にしたら、神戸ではほぼコースのお客様ばかりだったんです。アラカルトを頼まれるお客様は1割以下で、単品を30品くらい用意してもオーダーが無い日がざらにありました。
また、大阪では前のめりな料理というか、奇抜で何か分からないけど面白そうやなっていうものが好まれますが、神戸は一ひねり二ひねりある料理というのは大阪程受け入れられなくて、何となく予想の付くオーソドックスな料理が受ける。
誰もが知っている料理が好まれる傾向があって、保守的で間違いないものを好むな、という印象でしたね。神戸のファッションや街づくりからも、そういう感じがしますね。
驚いた点でもありましたが、自分にとっては落ち着く街だと思いました。常に無理して新しい料理を生み出しては消える街ではないので、自分の考えるスピードにも合っていますし、今できることの中で自分らしさや神戸らしさを考えながら仕事をできるのはありがたいですね。大阪でやっていたらどうなっていたかなぁと思ったりします。
今は自然体で料理に向き合えているし、神戸に来てから20年経って、それなりに顔が広がり、お付き合いさせていただく幅も広がりました。
自分の頭で思いつかないことは別ジャンルの人に考えてもらえばいいし、それぞれのプロが沢山いらっしゃるので、横の繋がりができていると思います。
―お店を長くされているというのは町の人から愛されているということですよね。
「愛されるお店」というのは本当に大事なテーマです。僕の場合は世界の名だたるお店を目指したことはなくて、「玄斎さんやったら間違いないわ」と言ってもらえるお店を目指しています。神戸の人に愛されるというのが幸せなんです。
コロナ禍の今、それぞれのプロがつながる世界を目指して
―コロナ禍において、「玄斎」さんではどのような取り組みをされましたか?インスタではお弁当のご紹介を良くされていますね。
僕の場合は、コロナ禍にできることがあることも確かなのでプロフェッショナルな人とコラボをするなど、何かにつながればと思って毎日やっています。
飲食業界でも困っている内容が一緒じゃないんですね。お酒が出せないこと、営業時間の問題、経済的にしんどいところもあれば、協力金はもらっていても再開したときにどうすればいいか悩んでいるお店もある。それぞれに考え方や悩みどころが違うということが見えてきたなと思います。
最初に緊急事態宣言が出たとき、お惣菜の販売を始めました。去年の春は筍が豊作だったので、いつもお世話になっている所から買って、筍を下処理して家で食べてもらえるように真空パックで売ろうかと。でも、真空パックを温めなおして他の具材を追加するのは大変だなということで、すぐ食べてもらえるものに変えました。
お昼時、奥様方はご主人がお仕事に行かれている間にちょっと美味しいものを食べたいだろうと考え、筍が残っていたので「筍のステーキ弁当」を作り、それが結構売れました。
今度はお肉がだぶついてきているというニュースを見て、仕入れ先のお肉屋さんのお肉を少しは買ってあげたいな、と思ったので、「神戸牛のステーキ弁当」を一週間限定でイベント的にしました。イベントのようにしないと飽きられるから、今週は何をやっているか、インスタで見てもらえる環境を作っていこうと終始投稿していました。そこでフォロワー数がぐっと増えましたね。
高級路線の次はお手軽なカレー丼に変えて、200個くらい売れたときもありました。お客様が飽きるというか、作る自分が飽きてきちゃうので行き当たりばったりで変えていたのが1か月半程続き、その間に医療従事者へのお弁当なども作りましたね。
6月位から通常営業に戻し、テイクアウトは止めました。
今年の正月明けから再び緊急事態宣言になったのでお弁当を復活させて、お寿司を出したりしていました。この前はお酒屋さんとコラボをしました。うちで酒のアテを作って、ワイン屋さんや酒屋さんに置いてもらいお酒とおつまみを買っていただくことで、そのお店とも顔見知りになって、お酒を飲んでもらえたらと思いました。自粛期間中、ビールや缶チューハイは売れているそうですが、家で日本酒を飲むのはハードルが高いから、4合瓶を2~3種類買ってもらおうと。
行政と組んで大きなことをするというよりは、民間でできるレベルで継続してやっていこうと思っています。神戸はプロフェッショナルの集団だし、小さいお店やオーナーシェフもたくさんいて、面白い人が多いですね。自分にできることをまずやると。誰からも頼られるという昔の田舎のような空気がありますね。
若手世代との対話で軽やかさを伝えたい
―独立についてお話がありましたが、若手の育成について考えていらっしゃることはありますか。
情報がいっぱい入ってくる今は、言い換えてみれば、必要以上の情報が流れている時代だと思います。知っていて得なことも、知らない方が良かったなということも多々あるし、冒険ができなくなっていることもあると思う。
僕らの頃は「何ができるか分からないけど、とりあえずやってみよう」ができた。失敗しても、再スタートすれば良いだけの話、とシンプルに考えられますが、情報過多になってくると、失敗に対して必要以上にビビるというか、失敗=悪、と思い詰めてしまう。失敗しないところでくるくる回っているだけに見えてしまうんですね。
考え方はもう少し軽やかにしてもいいんじゃないかなと思います。
僕はできの悪い弟子時代を過ごしてきましたが、思いつめることなく、軽やかに生きてきた50年でした。自分の気持ちを持っていく(整える?)テクニックを身に着けてくれたらいいと思いますね。
そのためには色んな人に揉まれていくのは大事だし、1日に何回も僕らの時代のことを言ってしまいますが、そういう時代もあったと知ることは無駄ではないのかなと思います。うちのように、カウンターの商売では連日連夜人生の大先輩が座ってくれるわけで、自分の生き方や考えるヒントになればいいのではと思いますね。
―様々なご経験を経て、今やってみたいことは?
この前、インスタで新しいスタッフの募集をかけたんですが、日本料理は仕事がきついイメージが強く、食いつきが悪いので、「仲のいい他店のご紹介やら、人生相談など、お話させていただくだけでも店主は幸せですので、お茶を飲みに来て下さい。」と書いたら、自分の年と変わらない方ばかりが来て、本当に人生相談になってしまいました。
こういう商売をやっているので、話を聞いてあげるのは得意ですね。料理って、怖い世界じゃないので、僕は悩みを聞いてアドバイスをしたり時にはきつめの玉を投げたり、そういう仕事を続けられたらいいかなと思います。
実際にインスタで応募して採用された嶋本 阿実佳さんにも、「玄斎」での仕事についてお話をお聞かせいただきました。
―これまでのご経歴をお聞かせください。
「北野クラブ・ソラ」という結婚式場で3年程フレンチをやっておりました。
―「玄斎」で働くきっかけは?
本当はフランスや海外で本格的に学びたかったんですが、コロナでいけなくなってしまったので、国内で学びたいと思い日本料理の求人を探していました。私がよく行くお鮨屋さんが「玄斎」さん(上野さん)も常連で、お鮨屋さんの大将から「今募集してるで!」と教えてもらうと、本当にインスタで募集していたので、直接DMを送りました。
ちょうど女性の方が辞められるタイミングと重なったので、入らせてもらえました。
―フレンチと日本料理の違いは?
和食と洋食は全然違っていて、包丁の使い方からもう違います。「桂むき」もできなくて、これから技術を身につけていきたいです。
またフレンチは、接客はサービス、キッチンはキッチンで分かれているので、お客様の前に出ることがまずなかったんです。サービスの経験がなくて、今初めてさせていただいているんですが、全然だめで。料理を運ぶだけでも声が小さいし、お飲み物をお伺いするのにも緊張している状態です。「玄斎」のお客様はみんな優しい人ばかりなので、イライラされる方もいませんが、一日も早く慣れるよう頑張りたいと思います。
―今後の抱負を教えて下さい!
まずは技術を頑張って身につけたいと思います。そして接客も、営業中に静かになっている時もあるので、自分からお話して楽しんでいただけるように頑張っていきたいです。
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【プロフィール】
上野 直哉
1970年大阪府大阪市生まれ。浪速割烹の礎を築いた上野修三氏の二男として生まれる。
18歳で京都「菊乃井」に入り、実家の「浪速割烹 㐂川」、「ちょぼいち」を経て「浪速割烹 㐂川」に戻り、2004年神戸市中央区に「玄斎」を開店。
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【編集後記】
上野様の和やかなお話をお聞きし、人の輪を大事にされ、良い空気を作られるお人柄を感じました。インタビューを通して感じた柔和なお人柄に、私もお料理をいただきながら相談してみたいと思いました。「玄斎」のインスタグラムは投稿だけでなくストーリーも魅力的なので、皆様にもぜひご覧いただきたいです。
※こちらの記事は2024年09月10日更新時点での情報になります。最新の情報は一休ガイドページをご確認ください。