京都「浜作」3代目主人・森川裕之氏に聞く、日本最古の板前割烹が紡ぐ伝統とその神髄とは

1927年(昭和2年)に創業し、約100年の歴史を持つ京都を代表する割烹料理店「浜作」。板前割烹の先駆けとして、そのスタイルや名称も合わせて初めて世に打ち出したのが「浜作」です。現在は、創業者である故・森川栄の孫にあたる森川裕之氏が3代目として店を引き継いでいます。今回「KIWAMINO」では、フードコラムニスト門上武司氏を迎え、「浜作」の原点から、3代目として活躍する森川氏の料理への思いなど、様々なお話を伺いました。

板前割烹の革新性

―割烹といえば日本料理の格式ある店として、いまや広く認められるようになっています。その先駆けとなった板前割烹を、スタイルや名称も合わせて初めて世に打ち出したのが「浜作」ですね。まず、板前割烹がいかに革新的だったかおさらいさせてください。

「浜作」の原点は大阪です。大正から昭和初期にかけての1920年代、大阪は「大大阪」と呼ばれ日本経済の中心地になっていました。当時は京都よりも大阪の飲食店に勢いがあったくらい経済力を背景にして食文化も発展します。例えば、料亭料理が好まれる一方で、注文に合わせて好みの料理を作ってくれる割烹料理も好まれました。なかでも即席に応じる即席料理が流行していました。

祖父はそうした活況の大阪で修業して腕を磨いたのです。その修行仲間のひとり塩見安三氏が独立して大正14年即席料理「浜作」を開店します。祖父はそれを機に、昭和天皇の御大典に沸く京都でもう一軒の「浜作」を昭和2年に開店いたしました。塩見氏はその後昭和3年に東京・銀座へ本店を移し、東京での割烹の先駆けとなりました。現在は、3代目が銀座「本店浜作」として継いでおられます。一方祖父は即席料理を一歩進め独自性を求めた結果、オープンキッチンにしてカウンター席のお客様が全てをご覧になりながらお料理をお出しするというスタイルを創案し、それを日本で最初の板前割烹と名乗ったのでした。

―食の流行は時代背景とリンクします。当時の京都は、歴史があるけれど総じて保守的でしたから、板前割烹は革新的に思われたでしょう。

インフラの整備も大きかったようです。まず交通網。昭和初期には鉄道網も整備され、鯖街道を通じて、サバやグジのひとしお物も新鮮な状態で京都に運ばれてくるようになっています。祖父はそれに加え省線電車といわれた東海道線を活用して、明石沖で獲れた鯛をその日に京都まで届くシステムを構築しました。その日のうちにいかに新鮮な魚貝類を仕入れるかが勝負だと考えたのです。それまで京都では、ピンピン跳ねた鯛や伊勢海老を料理人が捌くのを見ることがなかったので、お客様は皆さんびっくりして、これでまず評判をとりました。

それと火力の整備が進んだこと。厨房までガスがきて、すぐにお湯が沸かせて煮炊きができる。店の機動性からしても、このことは実に貢献度は大きかったと思われます。あともう1つ肝心なことですが、お客様の目の前で料理するわけですから、これをエンターテイメントにしないといけないです。割烹は、包丁を使う意味の「割」と火を使う意味の「烹」、この2つの料理方法を合わせて作った文字なんですが、祖父は修業時代大阪で鍛え上げた包丁使いをより洗練して鑑賞に堪えうるものとし、その姿をお客様が目の当たりにすることでの臨場感、料理の流れなど、今までにない料理のスペクタクル性も評判を呼ぶ要因になったようです。

―社会の動きと料理人個人の力量、そういうことがうまく相まって新しい食のスタイルが生まれたのですね。ただ京都人は舌が肥えていますから、目新しいだけでは満足しません。森川さんの祖父・栄さんの腕前が確かなものであったからこそ「浜作」の料理がおいしいと評判になったのでしょう。当時の人気ぶりを新聞や雑誌などの活字媒体が伝えています。地元の旦那だけでなく京都に集う多くの知識人、文人、俳優など、時の食通がこぞって「浜作」の名を口にしているのも大人気だった証拠でしょう。

引き継いできたこと

―森川さんは30歳直前の1991年、先代のお父上から三代目を引き継いでおられます。まだまだ若い年齢ですよ。少し変わったことをしてみようとか、そういうチャレンジはありましたか。

それはありますよ。親父のもとで修業しているとやっぱりこんなことしていたらあかんと。少しこう、気の利いたものを考えてみたりしたんですけれど、私は恵まれていたというべきか、お客さんが許してくれないのですね。例えば、ノーベル賞受賞者の湯川秀樹先生に締めで鯛御飯を出したことがありました。すると「御飯は白御飯に決まっている。ご馳走を食べた後に、鯛御飯みたいなもんは蛇足や」とおっしゃるのです。変わったものを出したからといってほめてくれるわけでもなく、逆に何故こんなけったいなことをするのだと叱られるのです。

―常連のお客さんにそう言われると効きますよね。

「浜作」はこうあるべしというのですね。自分がオーナーではないのですが、お客様は長年この店に通ったことについての責任と権利を有していると思われているのですから、若輩の後継ぎに言うべきことは言わないといけないと皆さん思っていただいているんです。言われるほうは悩みましたよ。毎日ね、こうしてもああしてもあかんばっかりやから。とにかく、ほめられたことがない。それはもう大変なトラウマとして残りました。うちの場合、世襲ですから、後を継いだら祖父や親父と同じ料理をそのまま出してると思われがちですが、それも全然違います。

料理屋はその人一代限り、往時味をつけていた初代や二代目が亡くなったらその味も無くなります。記憶や残された資料などをもとに再現しても、まったく同じ味にはならないでしょう。三代目だからといって、同じ味を狙って作っているだけでは発展性がないと思います。いくらよけいなことをするなと言われても、自分なりの料理を認められないことにはねえ。ここまで来れた、それは伝統として、味の好みとか、作り出す方法ということについては、1本筋の通ったものはありますけど、やはり、祖父と親父とは違います。親父と私も違います。自分を確立させるのに、20年、30年とかかりましたし、私がこの道に入って40年、やっとこの頃、自分のものができつつあるという、なんとなくね、そういう感じなんです。

―創業時から引き継がれた年までの60余年間、「浜作」は名店としての評判も落とさずあり続けてきたわけですから。

それはありがたいことで、やっぱり祖父を知っているお客さんも、親父をご存じのお客さんも、息子を育てなあかんと辛抱してくれていたんだと思います。私の未熟な時はそれまでの看板が一応ありますのでね、それで来てくれていたお客さんも多いと思います。それでも、時代が進み祖父や親父のお客さんが亡くなり、今はもうほとんど9割方から私の代になってからのお客さんになっています。それと同時に、ようやく私の料理がいいと言っていただけるようになって、つくづく思うのは、こうなるまで30年かかったということです。

味わい方を伝える

対して、今の人は自分の価値観に対して迷いがあるし、定まらないようですね。うちはオーダーを受けるのが基本。例えば「お造りにして」とか「酒蒸しにして」とか。お造りも「薄造りにして」とか。ですから、食べ手にもいわゆるそれなりの知識と経験がないとバランス良く注文することができないことになります。今のお客様はそういうことに慣れておられないので、コース仕立てにだんだん変えました。まあ、そうでないと、品物も昔のようにふんだんには入らないんです。そこは大きく変わった点であります。これはやはり、ここに立つ主人が毎日感じて、目に入ってくるもの聞くもの、それら膨大なデータを瞬時に解析してすっと対処できないといけない。同時にお客さんにはさりげなく料理の味わい方を伝えてゆく、これが板前割烹の主人の仕事なのですね。

―そういう意味で、「浜作」の料理は全部その場その場の出来立てですね。

これはもう絶対変えたらいけない鉄則です。作り置きしだしたらそら早くなります。でも、焼き物ならここで焼いて、炭を外してさっと出すとお客さんから「あぁ」と返ってくる。これが料理屋のダイナミズムでね、予定調和ではありえない、この感覚は。それは決して伝統といって済ますことではないと私はもう骨身に染みています。20代でそういうことを望む古いタイプのお客さんと向き合っていたのですから。

―技術を磨くだけでなく経験を積み重ねることも大事なんですね。

私は若い頃は、料理は理屈とレシピで作るものと思っていました。しかし、やはり経験と分析が必要になってくるとわかるのです。さらに、流儀のことをいえば、望むようなかたちになるのに何十年と続けないとできないものなのです。それは料理に関する事柄にとどまりません。毎日の仕入れがまさにそうです。いろんな生産者さんとは協力会社というか、いわゆる一心同体なんですね。長年の付き合いの信頼関係を基に互いに仕事ができるような構築ができている。それがまだ京都という町は完全に機能しています。これは他の地域にはない結構なアドバンテージなのです。

―最後に、森川さんが将来に残しておきたいと考えていることがあれば教えてください。

100年で一応切りをつけさせていただきたいとは思っているのです。京都ではいろいろなかたちで後継者を育てておられます。うちも同様に、せっかく今までのノウハウがあるのですから、うちのDNAを残さないとね。お料理教室の生徒さんも増えるばかりで、毎月200人来られてますから。それもなんらかのしっかりしたかたちで残さないといけない。あと考えているのは、若い料理人10人ぐらいで塾を作ること。割烹塾とでも呼んで、私が流儀の家元になって、例えばカウンターはどのように扱えばいいか、お客さんに対してどういうふうに振る舞えばいいか、そういうものをちゃんと系統立てて教えたいですね。私の余生はこうした板前割烹の流儀を確立させて、これは和食に限らずですが心ある人に託したいと思っているのです。

板前割烹

浜作

阪急京都本線 烏丸駅 徒歩7分

50,000円〜

編集後記
板前割烹「浜作」のご主人・森川裕之さんの調理風景を見ていると、究極のアラミニッツの仕事だと感じる。例えば胡麻和えを作るとする。胡麻をすり鉢から当たるところから始まる。当たった瞬間から胡麻の香りは消えてゆく。それを避けるにはこの方法しかない。当然のことといえばそうなのだが、それを守り続ける料理人は比類なきである。当然のことを自らに課する。効率化などという世界とは全く異なる料理人なのであり、食べる側も時には「浜作」さんの料理を食べ、料理が何たるかを考える必要がある。

※こちらの記事は2025年03月07日作成時点での情報になります。最新の情報は一休ガイドページをご確認ください。

門上 武司

1952年10月3日大阪生まれ。フードコラムニスト。
株式会社ジオード代表取締役。
関西の食雑誌『あまから手帖』の編集顧問を務めるかたわら、食関係の執筆、編集業務を中心に、プロデューサーとして活動。「関西の食ならこの男に聞け」と評判高く、テレビ、雑誌、新聞等のメディアにて発言も多い。一般社団法人 全日本・食学会 副理事長。2002 年日本ソムリエ協会より名誉ソムリエの称号を授与。
著書に、『門上武司の僕を呼ぶ料理店』(クリエテ関西)のほか、『スローフードな宿』『スローフードな宿2』(木楽舎)、『京料理、おあがりやす』(廣済堂出版)等。2023年11月29日発売の「あまから手帖別冊 食べる仕事 門上武司」(クリエテ関西)はこれまでの門上武司の食の歴史と、これからの「食」を考える刺激的な一冊。

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