地下へと続く階段降りて店の扉を開けると、広がるのは都会の喧騒とはかけ離れた非日常な空間……。グランメゾン「アピシウス」は、時代と共に変遷を続ける東京・有楽町の地で、40年以上変わらず営業を続けてきました。長年伝統を守ってきたこの店ならではの食体験とはどのようなものなのか。「アピシウス」の厨房に26年以上立ち続け、2024年、4代目の総料理長に就任をした森山順一シェフに話を聞きました。
目 次
憧れから入った「アピシウス」で、総料理長に任命される
―「アピシウス」で26年以上働かれている森山シェフ。「アピシウス」との出会いについてお聞かせください。
出身が宮崎県で、キャリアのスタートはホテルでした。現在の「ホテル日南北郷リゾート」に27年前に入社をして。そこで一緒に働いていた方が元々「アピシウス」にいらっしゃった方で、その方と一緒に仕事をするうちに、自分も東京に行ってやってみたいと思い1998年に「アピシウス」に入社しました。
当時は地方のレストランと東京都内のレストランというのは、使う食材も全然違いました。今では普通に入るような食材でも当時宮崎では缶詰でしか見たことがなかったりとか。そういったところへの憧れから入ったような感じですね。
―長年「アピシウス」のシェフとして働く中で、培ったことは何でしょうか。
“基本を大切に”ということは、26年の中で1番大事にしてきました。和食では出汁が大事だと思うんですけど、フランス料理だとフォン・ド・ボーだったり、鳥のブイヨン、魚のフュメ・ド・ポワソンをしっかり取るということ。今は、既製品も売っているんですよ。そういうものを一切うちは使っていないので、そういう基本の大切さは痛感します。
今の若い人たちにも、そういった基礎は覚えてほしいと思っています。見様見まねはできると思うんですけど、自分で実際やらないとわからないことというのはものすごくあると思います。食材、例えば鳥1羽を卸すであったり、魚を卸すであったり、そういった基礎的なことも、この店はきちんとやっているので、それは変わらずずっとですね。
―2024年に「アピシウス」4代目の総料理長に就任されました。就任が決まった時から現在に至るまでの心境の変化をお聞かせください。
2024年の4月25日に通達されて、最初は自分の中で不安と期待が半分半分でした。40年という歴史の中で、歴代のシェフをやらせていただけるというのは光栄なことだし、その分責任も感じたので引き受けることにしました。
葛藤はもちろんありました。話をいただく前は、独立をして自分の店を開くイメージも持っていました。一方で、前のシェフから、色々任されていた部分もあったので、もし総料理長の話が来たら、引き受けようかなという思いもあったのは事実ですね。
今はプレッシャーもあります。店が40年続いているということは、 3世代にわたって来店される客様もいらっしゃるんです。そこで、いい意味で変わったって言われればいいですけどね。違う意味で変わったと言われないようにしよう、このお店の品格を落としてはいけないというプレッシャーですね。
変えようと思えばすぐ変わるじゃないですか、料理って。ただ、変えてはいけないものが「アピシウス」には絶対にあります。“変わらずして変わっている”というような。難しいですけど、そこは意識してやっています。
歴史あるグランメゾンで体験する、一流のサービスと唯一無二のスペシャリテ
―40年以上続くグランメゾンである「アピシウス」ならではの食体験とは、どのようなものなのでしょうか。
非日常的な空間とサービスと、お料理。これらがグラメゾンって言われることだと思うので、それが何かひとつでもだめだったら、成り立たないというか。サービスだけ良くても料理がダメだとか、またその逆もしかりですけど。そこはみんなの共通意識として、やっているところです。
それから「海亀のコンソメスープ」は絶対入ってくるものですね。他ではやってないというのもあって。先代のシェフと、先代のオーナーがルートを築いて、それを2代目、3代目、そして4代目の自分と。絶対これを続けていかなくてはならない、うちのスペシャリテのひとつです。小笠原では、年間135頭と海亀を捕獲できる頭数が決まっているんですけど、そのうち12頭をうちが年間契約で獲らせてもらっています。
―このスープの特徴を教えてください。
他では絶対に味わえないというところがやっぱり1番のポイントですね。味の表現はかなり難しいと思います。普通のコンソメ、牛のコンソメとはまた違います。コラーゲン量は牛のコンソメの2倍あるそうで、質も違う。このコラーゲンによって、口の周りが少しべとつく感じですね。濃厚で、体験したことのない味わいという表現が適切なのかなと思います。
このスープを一杯作るのに3日かけていて、ものすごく手間がかかります。工程は牛などと一緒なんですけど、コラーゲンの量が多い分、鍋底に当たりやすくなるんですよね。コンソメって1回それをやってしまうと、香りをはじめ全てが台無しになるので。卵白を入れて、スープの濁りを取り除くクラリフェという作業をするのですが、そこから沸くまでの時間帯が勝負です。難しいですけど、これは若い世代に教えていかなきゃいけない部分ではあります。
変化をし続けなければ、伝統を守ることはできない
―「海亀のコンソメスープ」のほかに、特に味わってほしい料理はありますか。
「雲丹とキャビア 野菜のクリームムース コンソメゼリー寄せ」です。オープン当初から続く店のスペシャリテのひとつで、長い間来ていただいているお客様からは「味変わらないよね」と言っていただけるのですが、実は変わっています。
というのも、カリフラワーをはじめ野菜の質が変わってきていたりするので。分かりやすく言うと、トマトは、一昔前のものは少し酸っぱいですよね。今、糖度の高いものとか出ているじゃないですか。その逆もあって、にんじんなんかは少し味が薄いとか。そういうこともあるので、カリフラワーの状態を見ながら塩味を決めるとか、そういうところは意識していて、そこが先ほどもお話をした“変わらずして実は変わっている”ということです。時代に合わせて何かを変えないと、その変わらない料理を作ることはできません。
―伝統のメニューを守り続ける一方で、世代交代を機に変化した料理やメニュー構成を教えてください。
うちはある程度ベースがありますから、何を作るにしても。基本に忠実に、そこから自分の中で派生させていきます。元々はアメリケーヌソースでオマールエビを食べるというメニューがあるのですが、これを派生させたオマールエビの料理を2024年11月のメニューチェンジから提供しています。ベースのアメリケーヌソースに、ビーツを入れて色を淡いピンク色にしました。
ビーツを入れることによって、少し甘みが足されるんですね。そこで、真ん中にある、これもビーツを使ったムースに少し酸味を加えました。キャビアの塩味と、ソースやエビの甘みをトータルで召し上がっていただくという。総料理長に就任してから、初めて開発した料理です。
メニューに関しては、ランチの構成を少し変えました。あるランチコースでは、先代の時は、前菜チョイス、間をスープ、メインチョイスだったんです。それを前菜チョイス、魚・肉という構成にしました。これは「1万5,000円ぐらい払って、やっぱり魚、肉、両方食べたいな」という、自分の気持ちから変更しました。スープなどは、アミューズでお出しできればと思っています。
あとは、今までやったことがなかったのですが、新しい試みとして期間限定でランチのみのトリュフメニューもやっています。今まではランチ限定のものは出したことはありませんでした。
これはトリュフがいい時期というのは決まっているので。年明けから3月1日までの期間でトリュフメニューをやろうと。どうしてもお昼だけしか見えないお客様とかもいらっしゃるので、そういう方にも楽しんでもらえるようなメニュー構成ということで考えました。
―メニューや構成など、変化をさせる際に意識していることはありますか。
海亀のスープや、ドームのアセットキャビアなど、歴代のシェフが築いてきたスペシャリテは変えてはいけないもの。よりお客様に楽しんでもらうために、変えられる部分を変えています。初めて見えるお客様が結構いらっしゃるんです。その方にどうやって次もう1回行きたいと思ってもらえるか。いい印象でまた来たいと思わせるような料理、サービス、 空間作りというのは意識をしてやっています。
先代のバトンを受け取った森山シェフが創り上げる、これからの「アピシウス」とは
―今後、挑戦したいことや目標を教えてください。
今「アピシウス」は創業から40年ちょっと過ぎたので、まず次は45年で、またその次は50年と。それでまた次は後世に繋げなきゃいけないという思いがありますので、当面の目標はそのあたりです。
1日1日の積み重ねが大切であって、何かこれをやろうというのは、今はないですね。まずはこの伝統を守る。守るだけではだめなので、ここから自分もその伝統に乗っかって何かちょっと変えていくということですね。今の時点では何かこう、プラスアルファでできることを模索しながら、という感じです。
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森山順一氏 プロフィール
高校卒業後、故郷宮崎県の「フェニックスリゾート(現在のホテル日南北郷リゾート)」に勤務。
その後知人の紹介により1998年に「アピシウス」へ入社し、地道に経験を積む。
ソースへのこだわりを大切にしながら「アピシウス」らしさを表現し、2013年より副料理長に就任。2024年6月、「アピシウス」4代目総料理長に就任。
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【編集後記】
長年「アピシウス」の厨房に立ち続けてきた森山シェフの、総料理長としての覚悟がにじむインタビューでした。最も印象的だったのは、立場が変わったことによる苦労や努力を、ポジティブな視点で話していたこと。伝統を守るためには、“変えなければいけないこと”を見極めて応じるという、地道な努力が必要なのだと感じさせられました。その姿勢こそが日本のフランス料理界を牽引し続けてきた秘訣なのかもしれません。
※こちらの記事は2025年02月25日作成時点での情報になります。最新の情報は一休ガイドページをご確認ください。