恵比寿と広尾の中間地点、閑静なエリアに佇むカウンター6席の鮨店「すしさとる」。
プロボクサーから料理人へ転身するというキャリアを持ち、27歳で自身の店を構えた荒木悟氏。独立までにお世話になった様々な方への感謝の心を忘れずに、常に真っすぐな思いで鮨を握ります。今回「KIWAMINO」では、店主・荒木悟氏にインタビューを実施。キャリア転身の背景から鮨へのこだわり、そして荒木氏が描く今後の展望など多岐に渡って伺いました。
プロボクサーから料理の世界へ
―元プロボクサーという経歴から料理の世界へ進まれた経緯をお聞かせください。
うちは母子家庭でして、母は基本働きにでていました。兄弟は姉と妹がいるんですけど、姉はあまり料理をするタイプではなかったので、母の代わりに僕が妹のご飯を作っていました。中学校からボクシングを始め、宮崎にあるボクシングで有名な高校にスポーツ推薦で進学し、学部は調理科を選択しました。卒業後は縁あって京都にある日本料理店「京料理 本家たん熊」へ就職し、引退するまでは料理人とボクサーを兼業していました。
―様々な料理ジャンルがある中で、日本料理を選ばれたきっかけはなんですか?
はじめはフレンチや、イタリアンなど洋食に憧れがあったんですけど、当時の調理科の先生が日本料理を勧めてくれました。日本料理の方が汎用性もあるし、僕はボクシングをやっていたので根性もあるから向いているだろうと。そこで日本料理を学ぶならやはり京都かなと思い「京料理 本家たん熊」で学ぶことにしました。その後、21歳でボクシングを引退して、本格的に料理の道へ進む決意をしたという流れです。
―その後「麻布十番 秦野よしき」で修業されていたそうですが、きっかけはなんでしょうか?
30歳までに独立すると決めていたので、とにかく厳しい環境で修業をしたいと思っていました。特に鮨屋が良いというこだわりはなかったのですが、色々なお店を見て回る中で「麻布十番 秦野よしき」の大将・秦野氏に出会いました。仕事をする上で良い面を並べてくるお店が多かった中で、秦野氏の「独立する気があるやつしかうちは雇わない。簡単な仕事じゃないから、すぐ辞めるようなやつはいらない」と厳しくも真摯に伝えてくれる姿勢に心を揺さぶられました。とにかく厳しい環境で自身を成長させたいと思っていた自分には「ここだ」って思えたんです。鮨を握りたいというより、親方の元で働きたいと思ったのがきっかけです。
―「麻布十番 秦野よしき」の修業時代で印象に残っているエピソードや、今に活かされていることについてお聞かせください。
25歳の頃、ちょうど新型コロナウイルスが蔓延していた真っ只中です。独立したいという気持ちが高まって、大将に「独立したい。自信があるので自分でやりたい」と言ってはよく困らせていました。一度言い出したら曲げない自分に、大将は「まずは、店を開く前に自分でやってみろ。自分で歩き出して考えてみなさい」と挑戦する機会をくれました。1年間くらいですかね、赤羽の居酒屋を間借りして深夜の時間帯に鮨を握ったり、出張鮨をしたりしていました。
初めは3,000円くらいで鮨を握っていたんですけど「麻布十番 秦野よしき」出身者が握っているっていうだけで、深夜でもお客様が結構入るんです。だけど3,000円で出すのでさえすっごく疲れるんです……。「大将は4万円とかで出しているのに、自分は……」って色々と考えるようになりました。つけ場に立つと、細かなことに色々と神経を使うし、すごく気になるんですよね。少しのミスでさえ味に影響して100パーセントの鮨を握るのってこんなに難しいんだなって、その時に始めて気づきました。1年経って「自分がまだまだ未熟でしたと」大将に謝りに行って、改めて修業させてくださいと頼みました。それがちょうど26歳くらいの時です。
―「すしさとる」をオープンしたのは、荒木さんが27歳の頃だと思うのですが、最後の1年で具体的にどんなことを学ばれたのでしょうか?
1度挑戦したことで、大将がつけ場に立っている最中に嫌だと感じる部分が、すごくよくわかるようになりました。大将が気になる部分を0にする、それによって大将が100パーセントの鮨を握れるようになる。そして、それがお客様が喜んでくれることに繋がる。そのループに気づきました。今までは自分のことしか見えていなかったのが、この空間を作るためにどうやって人を動かすかとか、チームでお客様をもてなすのかということを学びましたね。
「すしさとる」ならではの食体験について
―2022年7月に「すしさとる」をオープンされました。お客様にはどんな食体験をしてもらいたいなと思ってオープンされたのですか?お店のコンセプトについてもお聞かせください。
コンセプトのようなものは敢えて作らないようにしています。というのも、自分がいるステージが上がった時に、コンセプトも目標も常に変えられるスタンスでいたいからです。日々色々なことが起きて、その度に臨機応変に高みを目指していかないといけないので、こうしないといけないみたいなレールは自分には、必要ないと思っています。
この店はオーナーがいるわけではなく、自分の貯めたお金で独立したので非常に手狭です。カウンターも6席しかありません。お客様同士の距離間も非常に近いので、その中でどうお客様にリラックスしてもらえるか、僕の鮨に心を開いてもらえるかを考えています。例えば給食ってそれ自体はそんなに美味しくないけど、記憶にすごく残っていると思うんです。それって、みんなでワイワイ楽しく食べたという体験が、印象に残っているんじゃないでしょうか。僕はここでその高級版ができたらなって思っています。
―コースについてこだわりをお聞かせください。
2つあります。1つ目は茄子とあんこです。今ここで握れているのは親方のおかげなので、“礼にはじまり、礼に終わる”じゃないですけど、親方への感謝の気持ちを表しています。うちのコースは必ず「茄子の揚げびたし」に始まり「あんこのおはぎ」で終わります。独立するにあたり、仕入れやシャリなど自分なりに変えてしまったのですが「おいで“ナス”」に始まり「“アン”コール」で終わるスタイルだけは大将への感謝の気持ちを表す意図で変えることはないです。親方の元で働いていた時と、今のスタイルは大きく異なりますが、目指しているところは一緒。美味しい鮨を握るという共通のゴールを目指しています。ただ自分なりのスタイルにすることで、僕が握る鮨に僕の魂がのると思っています。
2つ目はマグロです。マグロは鮨のためにある魚だと思っています。刺身で食べても美味しくないです。そして何と言っても、僕が1番好きなネタです。「麻布十番 秦野よしき」は「やま幸」から仕入れていたんですが、僕は自分が1番美味しいと思った仲卸の「フジタ水産」からマグロを仕入れています。値段は高額で「やま幸」の2倍はすると思います。それでもどうしても「フジタ水産」のマグロを仕入れたくて何度もアプローチしました。はじめはなかなか取り合ってもらえなかったんですけど「藤田さんは、数々の名店に魚を卸しているけど、ゆくゆくはそういうお店になる自信が僕にはあります。僕がトップに登り詰めて、藤田さんのマグロをもっと世の中に知ってもらいたいんです」とアプローチして、希少なマグロを卸してもらえるようになりました。
―マグロは何貫提供されているんですか?
中トロ・赤身・漬け中トロ・漬け赤身の4貫と藤田巻という巻物1本です。藤田巻は、赤身と中トロのすり身を太巻きで出しています。うちのスペシャリテのマグロ、ぜひ皆さんに食べていただきたいですね。
調理を学ぶための環境を作ることで、今までの恩返しをしたい
―最後に、現在挑戦されていることや今後取り組んでみたいことについてお聞かせいただけますか?
もちろん直近は今のお店を成功させたいですが、僕のゴールは料理を学ぶための奨学金制度を作ることです。うちは母子家庭で生活保護を受けていました。それを知ったのは20歳ぐらいの頃なんですけど。自分の家庭は裕福ではないというのは幼い頃から気づいていました。ただ、お金がないなりに周りに支えられて生活できていたんですよね。例えば中学校の頃もスポーツは上手だったので、県や地域の代表なんかに選ばれていました。そうすると色々なところに遠征に行かないといけないんですけど、うちの親は仕事で行けないからって、友達の親とかが代わりに送ってくれたりしていたんです。自分の子供は大会に出ていないのにも関わらず。ただそういうのもあって、小さい頃から周りに気を使ったり、顔色を窺ったりして生きるようになっていて、窮屈さから反発してしまった時期もありました。
そんな状況から逃げたい気持ちもあり、地元を離れ宮崎の高校に行きました。学校はボクシングの推薦で進学したので授業料とかは免除になるんですけど、制服とか教科書とかは自費で購入しないといけないんですよね。だけどそれも学校の先生が厚意で立て替えてくださったりして、なんとか学校に通うことができました。ボクシングが日本一強い学校だったので、一度たりとも負けることは許されない。本当に厳しくて、まるで軍隊のような環境でした。ただそんな環境でしたが、中学校は5分の1も行かず素行の悪かった自分が、卒業時には調理科で最優秀生として表彰されるまでになったんですよ。これは高校、そして周りの大人たちのおかげですね……。
卒業後、そして「すしさとる」を開いた今も、僕は何度も何度も周りの大人たちに助けてもらってきました。なので、僕はそれに恩返しすることを最終的な目標にしたいと思っています。片親の子だろうが、少年院にいた子だろうが、そういう子たちにお金を出せる環境を作ることが、飲食の未来を創ってくれるんじゃないかなって思うんです。僕はある意味とても運がよかったと思います。僕を騙すような大人がいなかったので。だけど、地元では同じような環境で生まれ育って、グレてしまってどん底のような生活をしている子もいます。僕も似たような環境で育ったので、大人の助けがあるかないかでその後の人生って大きく変わってしまうというのを目の当たりにしました。それが痛いほどわかるからこそ、僕は1人でも多くの子供たちに希望を与えられる存在になりたいです。ただそのためには、まずは自分のお店を成功させる必要があると思うので、今のお店で早く結果を出していきたいと思います。
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荒木悟氏 プロフィール
1995年栃木県生まれ。プロボクサーとしてリングに立ちながら、京都にある日本料理店「京料理 本家たん熊」にて研鑽を積む。21歳でプロボクサーを引退し、その後「麻布十番 秦野よしき」にて修業。27歳の時に、自身の店である「すしさとる」をオープンし今に至る。
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【編集後記】
“礼に始まり、礼に終わる”を胸に、常に周りへの感謝を忘れない荒木氏。少しでも多くの子供たちの希望になり、飲食業界の希望になりたいという熱い思いを語ってくださいました。確固たる目標を胸に握る渾身の一貫、ぜひ食べてみたくなりました。
※こちらの記事は2024年03月29日更新時点での情報になります。最新の情報は一休ガイドページをご確認ください。