京都「京 静華」宮本静夫氏に聞く、飽くなき探求心と幅広い経験で生み出される独創的な中国料理とは

2008年に京都にオープンした「京 静華」。オーナーシェフの宮本静夫氏による独創的な中国料理の数々は、シェフの飽くなき探求心によって、舌の肥えた多くの美食家を唸らせています。今回は、宮本氏にフードコラムニストの門上武司氏がインタビュー。最初の独立開業から現在に至るまで、宮本氏の中国料理を探求する一貫した姿勢を語っていただきました。

独立当初から変わらない“自分で考えながらやる”という姿勢

-宮本さんが中国料理の道に進まれたのは、大学卒業後に飲食関係の会社に勤められたことや、奥様との出会いなどが契機だったと伺っています。時代は1970年代から80 年代にかけて、そのような運命的なキャリアのスタート地点において、将来はどのような料理人になろうと目指されていましたか。

当時、日本に外食産業が定着しつつある中、私が勤めていたのは地元の静岡で、中国料理店をチェーン展開する会社でした。働きながら、主に営業面の勉強を色々させてもらっていました。また、当時知り合った家内の実家も、ご両親が営む中国料理店。
同じ飲食業ですが、企業経営と個人経営の違いを比べてみたりしていたからか、30歳を前に結婚となった時に「会社員でいるよりも自分の店を持った方が、思い通りに道は開けるな」と思ったのです。

それから、料理人になると決意して「四川飯店」創業者の陳建民さんが東京・恵比寿に創立された料理学校に通いました。浜松から恵比寿まで毎週通い、基本を一通り学んだ後に独立しました。私は師匠などに付いて修業したこともなく「どのような料理人を目指すか」というイメージもなかったので、すべて自分で考えながらやってみるということの連続でした。

-外食化が進み、多様なジャンルのレストランが増えていった時期でしたから、中国料理にも新しさが求められていましたよね。

はい。とはいえ、中国料理が一つのジャンルとして認められるには、まだ時間が必要でした。私が個人店で中国料理のレストランを目指すといっても時期尚早だと思われていましたから。そのため、1983年に浜松で店を開いた当初、初めは“自分にしか生み出せない料理性”を大事にしていました。コースではなく、一つひとつ作ったメニューを用意し、お客様にはアラカルトで自由に選んでもらうスタイルでやっていました。その時々の食事を楽しんでいただくという、言わばビストロのような中国料理店を考えていたのです。

そのようなことを続けていく内に、店がお客様に認知されてきて、コース料理を求められるようになってくると、サービスも含めて段々と店の形が変化していきました。そして来店を予約制に切り替える頃には、料理の内容自体も変わっていきました。

中国料理というものは年中同じメニューを提供することもできますが、やはりお客様からは「季節感」を求められるんですね。その辺りの頃から、食材は地元の浜松でとれるものを積極的に使うようになっていきました。当時、浜松でも栽培され始めたばかりで、まだ珍しかったチンゲンサイやパクチーなどの中国野菜や、ハーブなどの西洋野菜を使ったりして料理を出していました。他には、浜名湖の魚介ですね。エビや魚を中心にしたもので、例えば魚の蒸し物と麺を合わせたりして、創作するメニューの幅は確実に広がっていきました。

-現在の宮本さんに通じる基本型が、すでにスタート時点から出来上がっていたんですね。

中国料理の本場で学んだ調理技法や考え方

-でも、浜松の店は25年を節目に一旦閉められる。宮本さんは当時55 歳になられた所で中国へ行かれていますよね。そのタイミングで中国を訪れたのはなぜでしょうか。

私の中で「本場を知らないわけにはいかない」という思いが常々あり、浜松の店を25年間やっていた時も、仕事の合間を縫い、時間を作っては研修しに行っていたんです。台北では、四川料理や湖南料理。香港のホテルでは、ヌーベルシノワなどを教わったりしていました。

私はまともに修業していないから、基礎的なことは地道に自分でするしかないのですが、中国料理の考え方とか技法とかの知識はどうしても浅い。足りない所は必ずどこかで埋めねばならないし「それなら中国本土でどんなふうにしているのか直に見てみたら、少しは違ってくるんじゃないか」という考えがありまして。
色々な場所を訪れた後で「次は北京に行こう」と思っていたら、現地に私設の料理学校ができたことを知り、店を閉じて北京へ移って通うことを決めたんです。

行った先の学校は、短期間にプロの料理人を養成する指導方法を取っていました。卒業生をどんどん現場へ送り出すような、システマティックなやり方をしていたのです。でもそのおかげで、現場で即戦力として役立つ考え方や方法など、多くの学びを得られたので、行って良かったと思っています。
例えばスープの取り方一つとっても、理論としては教科書通りなのですが、実践的に教えられると、調理現場で理にかなった動き方をしているのがよく分かるんですね。

また現地で暮らしていたために、中国での日常的な食生活に触れられたことも大きかったです。中国料理の伝統や食文化の奥深さも肌で体験できました。留学していたのは短期間ですが、北京で学べたことは大きな財産になっています。

-そのようにして中国で 1年間料理留学した後、京都へ移転されたのはどうしてですか。

地元の浜松には愛着もありましたが、店を畳んで土地を離れてしまったからには「新しい場所で再スタートしたい」と考えていました。北京では、古い城郭や寺院ばかりが現存しているだけでなく、昔の街並みも残っていて、そのような景色の中で中国料理の伝統や歴史的な物事、そして“食”に触れていたんですね。

なので「日本の中で北京に似ている空気感を持っている古都はどこかな?」と考えると、京都や奈良が思い浮かんだんです。特に、京都という環境の中で“自分なりの中国料理”を作ってみたら、北京で感じたり学んだりして得た物事を、他の土地でやるよりも活かせるような気がして。それで、京都で新しく始めてみようと思いました。

京都で開業したことで広がった料理人同士のつながり

-京都で移転開業されたのが2008年。浜松で開業された頃とは、時代も環境もまったく違う中での再出発でしたね。

そうなんです、もはや“中国料理のレストラン”というだけでは、多くの他店に埋もれてしまう状況でした。京都はさすがに日本が世界に誇る観光地。日本各地だけでなく海外からのお客様も多くて、そういう意味では浜松にいる時よりも、色々なお客様に出会えるのは良かったなと思っています。
また、そうした環境ですから、料理人さんも大勢来店される。料理人同士で色々な情報交換したり、助け合ったりして触れ合うと、思っていたよりも仲間の輪の中に溶け込みやすかったな、と思いました。

他の料理人さんと話している内に、京都は食材の面でも日本各地とつながっているのが分かってきました。もちろん、浜松の生産者さんともつながっていますし、そのように各地で採れたものを、全国から来られる人々に向けて料理という形で披露できるのが素晴らしい。例えば、賀茂ナスや聖護院大根など、そういった京都ならではの食材を、中国料理にして提供できるのは、自分にとってとてもやりがいのあることだと思っています。

-京都にお店を開いてから、もう15年になりますね。

そうですね。でも、これまで京都で食べ歩きしたりして様々な料理を経験してきましたが、 自分の中ではまだ消化しきれてない部分が多いんです。京都に来て、周りの多様なジャンルの料理人さんが実行されていることをよく見させてもらい、刺激を受けながら色々と情報を整理していくと“自分なりの料理”というものの追求は果てしなく奥が深い、と痛感させられています。

-宮本さんは中国料理の古典書物を読んで、料理にエッセンスを取り入れられることがありますが、新しい料理や“自分なりの料理”を生み出すための、原点にあるのはやはり古典なんでしょうか。

私にとって古典というのは、漠然と教科書みたいに読むとか、レシピを読み取るというものではなくて、中国の食物史を理解する上でも読んでおかなければいけないものなんです。代表的なのは、清時代の料理書「随園食単」や、近代に国家指導で編まれた「中国名菜譜」があります。それらを読んで少し勉強しておくと、自分たちが今作っている“中国料理の方向性”みたいなものが分かってくる。
そのため、若い人たちといっしょに古典を読み解いていく勉強会を始めたりもしています。そうしながら、定番の中国料理を見直したり、新しいアイデアを探ったりしているんです。

留まることなく追求する“自分にしかできない料理”

-宮本さんの探求心は衰えることを知らないですよね。プライベートでも試作を続けておられると耳にしますが、そこまでご自身をかき立てるものとは何でしょうか。

それはやはり、出発点から自分自身のキャリア不足というものを常に感じているからです。“自分の未熟さ”というか「他の料理人との差を、いつ埋めるんだ」という気持ちを、常に忘れずにいることを意識しているんです。「私はまだまだ色々なことが分かってない、もっと知らなくてはいけない、できなくてはいけない」という気持ちが「こんな所で留まるわけにはいかない」という力につながっていくと思っています。

とは言え、いくら気を張り詰めて一生懸命動こうと思っても限界は出てきます。これからは、少し緩い感じで、いつも穏やかに微笑んでいられるような料理でいこうかな(笑)
「いかに楽をするか」というと語弊がありますが、手を抜くということではなく、単純化できる所はもっと単純化して、省ける所は省きつつ、それでもやっぱり“物の本質”を伝えられる料理を目指していきたいですね。

-“自分にしかできない料理”を作るにはどうすればいいのか。何を学べばいいのか。努力すべきことは色々あると思いますが、これからの若い人に向けて具体的なメッセージをお願いします。

繰り返しやっていく中で、一つの料理の味を変えないこと。日々、味を微調整して変化を加えながらも、根本の味が変わらないことを意識して、そのバランスをしっかり心がけてほしいです。“自分の味”だと言われるような「ここに来ないと味わえない」という料理を作っていかないといけないです。

色々変えていく所は変えたり、新しいことを試みたりするのはいい。けれど、出汁の取り方や“食材に対する考え方”のような、料理の軸となる基本の姿勢はぶれさせない。そして「これは新しい発見だ」と思ったやり方は、たとえ手間がかかろうとも「その工程がなぜ必要か」という裏付けを確かめながら料理することが大事かなと思います。それが要するに“日々の精進”ということだと思います。

例えば、鶏肉の料理で、水煮にして何も味付けしない料理があります。ただの茹でた鶏ですが、古酒みたいにそれが“一番の味”だと言い切れる信念というか、素材に対する確固とした考え方を、自分が持っていることが大事なんですね。そのためには、鶏の美味しさの本質はどういう部分にあるのか、しっかりと自分の中で捉えておくことが重要です。

そして、その「“本質的な美味しさ”を活かすには何が必要か」ということを考え続けていくと、先人たちの料理に対する考え方にも必然的に触れることになります。そうして得た様々な知識や思考を、自分なりに見直していけば、また新しい料理にも近づけるのではないかなと思います。

宮本静夫氏 プロフィール
1983年に静岡県・浜松市で中国料理店「静華」を開業。25年続けた店の営業のかたわら、香港や台湾、北京などの各地へ研修に赴き、中国料理を探求し続ける。その後、50代半ばでいったん店を閉め、北京でのさらなる料理留学を経て、2008年に京都で「京 静華」をオープン。2019年に店をリニューアルした後は「ミシュランガイド京都2021」から現在まで、一つ星を獲得し続けている。

中国料理

京 静華

京都市営東西線 東山駅 徒歩5分

20,000円〜29,999円

【編集後記】
宮本さんの料理に対する姿勢は、比類なきものだと思います。
自分を律する精神の強さにはただただ驚くばかり。そして弟子に対しては当然のことながら、若い料理人への知識や経験の伝達ぶりも見事としか言いようがありません。その証拠に、年末のおせち料理の作成時には、宮本さんのお店で働いていた料理人が、宮本さんの下へ集まってくるのです。

※こちらの記事は2023年09月29日作成時点での情報になります。最新の情報は一休ガイドページをご確認ください。

門上 武司

1952年10月3日大阪生まれ。フードコラムニスト。
株式会社ジオード代表取締役。
関西の食雑誌『あまから手帖』の編集顧問を務めるかたわら、食関係の執筆、編集業務を中心に、プロデューサーとして活動。「関西の食ならこの男に聞け」と評判高く、テレビ、雑誌、新聞等のメディアにて発言も多い。一般社団法人 全日本・食学会 副理事長。2002 年日本ソムリエ協会より名誉ソムリエの称号を授与。
著書に、『門上武司の僕を呼ぶ料理店』(クリエテ関西)のほか、『スローフードな宿』『スローフードな宿2』(木楽舎)、『京料理、おあがりやす』(廣済堂出版)等。2023年11月29日発売の「あまから手帖別冊 食べる仕事 門上武司」(クリエテ関西)はこれまでの門上武司の食の歴史と、これからの「食」を考える刺激的な一冊。

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