九州中の豊かな海の幸や山の幸が集まり、国内外から食の都として注目を集める福岡。中心都市・天神のほど近く、大濠公園駅に暖簾を掲げる「鮨料理 一高」の店主・木宮一洋氏は、宮崎県の人気店「一心鮨 光洋」の創業者・木宮一高氏の長男としても知られています。今回は料理人になったルーツや木宮氏が握られるお寿司の極意、これからの人材育成に関して、多岐にわたって語っていただきました。
※本インタビューは、2021年9月9日にオンラインにて行いました。
1.海外での経験から導き出した柔軟な考え方
―お父様は宮崎県を代表する名店「一心鮨 光洋」の創業者、曽祖父は鰻屋さんを営んでいたそうですが、料理人になることは子供の頃から意識されていたのでしょうか。
小さい時から「寿司屋の2代目になる」ということは、事あるごとに言われていたので、お寿司屋さんになるものだと思っていましたね。
父は5歳ぐらいの時にポリオを患って、片足が動かなくなってしまったんです。そのような状態で修業に出て、立ち仕事でもあるお寿司屋さんという道に進み、そしてお店が繁盛店になって……。
そんな父と比べられることも多く、中学や高校の時は「お店を継ぐ」という言葉から逃げたいと思ったこともありました。
―重圧もすごかったと思います。お父様の下で修業されていたそうですが、当時学ばれたことで自身に活かされていることはありますか。
父から仕事を教わったという記憶はあまりなく、どちらかというと先輩から教えてもらったという印象が強いです。
「一心鮨」には、父の下で修業をしていた仲間が営む東京のお店を回る研修制度があったのですが、その中で教えていただいたことの方が、僕の中ではすごく面白かったです。
当時の「一心鮨」は60席ある大箱店で、たくさんの魚を扱っていたんですね。だけど研修先は小さなお店が多く、一つ一つ的確に仕事をしていく小規模店ならではの仕込みにすごく差を感じて、戻った後は大箱店の中でも学んだことを実践したりしました。
宮崎に帰ってきた当時は回転寿司ブームで、地方だと町場のお寿司屋さんと回転寿司の価格が被ってしまう。
他のお店の親方たちと顔を合わせれば「回転寿司にお客様が流れて行ってしまうのを、どう止めるか」という話ばかりだった時代があったんです。
昔は「一心鮨 本店」があって、今の「一心鮨 光洋」は支店だったのですが、「一心鮨 光洋」ができた時は同じように昼は3,000円、夜は5,000円くらいの価格でした。
その当時、“江戸前”という言葉が事あるごとに出てきて、これからは“江戸前”の時代だと感じ、東京で学んだことを「一心鮨 光洋」での仕事にも活かし、味もそれまでの先代のものから大きく変えました。その結果、客単価も思い切って2万円に値上げしたんです。
時代と共に変わり続けていかなきゃいけないと、すごく柔軟にやってきました。
―その後39歳で「一心鮨」を辞められ、シンガポールに行かれましたね。どんなことを経験されたのですか。
シンガポールへは指導する立場として渡り、現地のシンガポール人やマレーシア人に和食の仕事を教えたり、メニュー開発をしたりしていました。
当時、堀江貴文さんが「寿司職人は3ヶ月でなれる」とTwitterで呟き、物議を醸したことがありました。
僕もずっと「一心鮨」で採用の手伝いをしていて、人が長く続かないという壁にぶつかっていたので、その言葉を聞いた時には「そんなことない」と思っていたんです。
しかし、その言葉が書いてあった本をしっかりと読んでみるとなるほどな、と。修業も今の時代やニーズに合わせて変化すべきじゃないかと思って、自分でカリキュラムを組んで実践してみたら、3ヶ月で寿司職人を育成できたんです。
海外では「働く」というスタイルが日本とは全く異なります。日本人は働くことを美徳と思っている部分もあるかと思いますが、海外は全くそんなことがない。
今は情報が溢れていて、それをキャッチできるかは、本人次第。その取り方さえ理解していれば、どうにでもなるということをシンガポールに行ってより強く感じました。
―帰国後、2019年に「鮨料理 一高」をオープンされます。宮崎ではなく、福岡に出店された理由をお聞かせください。
宮崎に出店すると、どうしても「一心鮨」と被ってしまいます。弟が一生懸命頑張っているお店を邪魔したくないという想いはありました。
最初は東京、京都、福岡という選択肢を考えていたのですが、最終的には福岡を選びました。
なぜかというと、福岡は自由度が高いからです。
もちろん寿司職人であり続けたいと思うんですけど、それだけだと人生の生き方が一つしかない。もっと色々なことをやりたくて。
東京や京都のお寿司屋さんは、ストイックな職人像を求める傾向があると思うんですが、そういった形にハマりたくないと思ったんです。
僕は特定の師匠もおらず独学でやり続けていたので、寿司に対してのこだわりが強くない。
父がやっていたことを否定して、「次の時代のお寿司屋さんはこういうことだ」と思ってやり続けて今の形になったけど、未だに答えは見つかっていないです。
そこをストイックに追い続けるということが、海外での生活を通して何か違うと感じるようになって。
昔は自分に対しても人に対しても、突き詰めていた時がありました。そうやって生きた父や同年代の親方たちは、みんな65歳まで行かずに亡くなっているんですよね。
そういったことを目の当たりにして、自分の人生や誰かの人生を犠牲にしてまで働きたくないなと。そういうことは、僕に関わる人にはさせたくないと思っています。
2.一つのネタを握り続けて到達する完成形の料理
一季節毎にテーマを設定してメニューを決められているそうですね。メニューを決める際、一番心掛けていることを教えてください。
自分が出会った人や来てくださったお客様との会話、読んだ本や産地に行って感じたことを通して、僕は日々成長させていただいていると思っています。
1本の軸や柱を持って、そのフィルターで物事を見続けたり世の中のことを考えたり、流行り廃りを見ていく中で感じるものを、半歩進んでテーマとして据えるようにしています。
この“半歩進む”というのがポイントで、1、2歩進んでしまうとお客様に理解していただけない。だから半歩進んだ形で表現することを心掛けています。
―ワンシーズンで握られるネタも固定されていると伺いました。ネタはやはり、九州のものが多いのでしょうか。
握るネタは90%が九州近海、玄界灘で獲れたものを使用しています。
ワンシーズン毎にネタを決めているのは、一個の握りを完成形に持っていくのに、1,000個とか10,000個とか、ずっと握り続けることで上手になっていくと考えているからです。
ヒラメの握りを美味しく握るということを意識して、ワンシーズン握り続けることで、さらに美味しく握るためにはどうしたらいいかを考えます。
それを身体に記憶させるためにワンシーズン、同じネタを握り続けるんです。
お客様には少し理解しづらい部分もあるかと思いますが、自由に味を楽しんでもらえたらと思っています。
―ネタと合わせるシャリに関しても富士酢を3種類ブレンドされたり、ネタに合わせて握る力加減を変えたりするなど、こだわりがあることを拝見しました。
シャリに関しては、何百回というほど変えて研究し続けました。10年近くどんな配合がいいかを考える中で、米とすし酢の割合の黄金比ができてくるんですけど、味の強弱などは年齢と共に変わっていると思います。
ぐいぐい仕事をしていた30代半ばの時に比べると、今のお寿司はすごく穏やかな味だと思います。あまり食べ疲れないお寿司を作ることを念頭に置いていますね。
どちらかというとシャリの味へのこだわりというよりも、今僕ができる黄金比のシャリを使って、職人として端的にどうお寿司を握るかということだけを考えて握っています。
シャリの味は年齢と共に変わっていくし、色々な世界が広がることでリミッターがないんですよね。なので、これからも探し続けるし考え続けるし、求め続けていくと思います。
3.お客様に寄り添ったお店造りと人生を豊かにする育成方法
―木宮様の今後の展望をお聞かせいただけますか。
お店としては、どんどん間口を狭めていきたいと思っていて。今のように予約で全席埋まり続けるお店ではなく、いつでも常連さんが予約を取れて、サクッと召し上がっていただける、もっとお客様に寄り添ったお客様本位のお店にしていきたいですね。
なので、今後はSNSなどから少しずつ姿を消していこうと思っています(笑)。
確かに効率的に宣伝したり、お寿司を握ったりしていると稼げるんです。ただ、そんな世界はすごくつまらないなと感じています。
今後、予約の間口を狭めて少し空いた時間に、職人としての自分の腕をもっと磨きつつ、新しい販売の仕方や新たな何かに向けて、クリエイティブに活動していきたいと考えています。
―「鮨大学」を開校されるなど、人材育成に関してもご尽力されていますね。今後は今まで以上に注力されるのでしょうか。
今まで以上に付きっ切りになれると思うので、もっと力を入れていきたいです。
僕は、今後の修業は「トレーニング」という時代になっていくかと考えています。日本料理の世界などは、修業の中でこれが必要でこれが必要じゃない、というのが確立されていて、それだけやっていれば成り立つような時代になっています。
それを補うために、例えば「劇場型」などのエンタメ要素が出始めてきたんです。
僕はそういった流れを作ってきた世代に含まれているんですけど、逆につまらなくなってきているな、と感じています。
なので、今後は人材育成に関してもやり方をどんどん変えていこうかと考えています。今までとは違った教え方や、寿司職人としてはもちろん、人間力を高くするためにどのように弟子と向き合っていくのか、空いた時間を使って自分も学びながら人材を育成していきたいと思います。
―実際にお弟子さんが「鮨料理 一高」のカウンターに立って、お寿司を提供するコースも販売されていたそうですね。そういった場があると、お弟子さんの自信にもつながるのではないでしょうか。
自分の力でやり遂げる経験を、どれだけ多く重ねることができるかというのは本当に大切だと思っていて、僕はそんな環境を弟子たちにもっと与えていきたいし、逆に弟子から提案があれば喜んでやらせてあげたいですね。
後は「自分たちで商売すること」について教えていきたいです。
修業でお寿司の握り方は教えてもらえるけど、「稼ぎ方」については教えてもらえないんですよね。何十億稼ぐとか、そんな大きい話ではなくて、自分の身の丈に合った稼ぎができるようにならないと、周りの人に何かを与えるということはできないです。
まずはそこができるような人に成長させることで、弟子達の人生も豊かにできると思っています。
お客様を喜ばせることで幸せを掴んでいける術を教えていくのが、一高流の教育方法だと考えていて、そういう風に周りのみんなを幸せにできるスタッフを育てていきたいですね。
僕はストイックに四六時中料理のことを考えるような修業は、これからの時代に合っていないと思っています。
食って、身近な人を笑顔にするアイテムだと思っていて、その延長線上でお客様に喜んでいただける、本来はそんな程度の位置づけでいいんです。
最初はそんなことから入って、そこから「ああしたい、こうしたい」というのが生まれて、だから勉強するという流れが理想的ですね。
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【プロフィール】
木宮一洋氏
1978年、宮崎県生まれ。21歳で父が店主を務める「一心鮨 光洋」に入社。23歳で系列の回転寿司「一番星」の店長に就任。26歳で「一心鮨 光洋」の店長になり、33歳で二代目を引き継ぐ。39歳で「一心鮨 光洋」を退社後、シンガポールへ。人材育成に従事した後40歳で帰国。2019年8月に「鮨料理 一高」を開業。
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※編集後記※
「お客様本位にシンプルにお寿司を握っていきたい」という言葉が印象的だった木宮様。突き詰めて働かれていた20代、30代から海外を経験され、そして自身のお店を持ち、身に付けた技術と考えの中から見出した“シンプル”という答えが、現在の木宮様のお仕事やお人柄に繋がっているということを強く感じました。
インタビュー中も笑顔が絶えず、とても楽しいひとときでした。そんな木宮様だからこそ、お客様はもちろん周りの人を幸せにできるお寿司を握られるのだと思います。
※こちらの記事は2021年10月20日作成時点での情報になります。最新の情報は一休ガイドページをご確認ください。