インタビュー|

【坂井宏行氏×マッキー牧元氏 対談】フランス料理界のレジェンドに聞く「日本フレンチ」の軌跡

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「クラブ・デ・トラント」をご存じですか?1980年代に当時の若手フランス料理シェフが集い、日本におけるフランス料理の発展を目指したグループです。「KIWAMINO」では現在も精力的に活動されるレジェンドシェフの方々にお話を伺い、弟子や若手シェフ、ゲストの皆様への想いをマッキー牧元氏との対談でご紹介。
第1弾は、ムッシュ・坂井宏行氏!まだフランス料理が根付いていなかった時代に、シェフたちが苦心しながら普及させていった熱気。令和の今、改めて考察し紐解いていきます。

マッキー牧元氏より:坂井宏行シェフとの対談に寄せて

1980年、日本のフランス料理界は、大きな変革の時を迎えようとしていた。それまでのフランス料理はホテルのダイニングが主役で、フランスで学んだシェフ達が一流の料理を提供していた。しかし1970年代後半から、フランスで修行してきた若き料理人達が街場で次々とレストランを開いた。勢いある30代のシェフが結束し、フランス料理を研鑽し、発展させ、広めていこうと「クラブ・デ・トラント」を発足したのである。
第1弾の対談相手は坂井宏行シェフ。1980年に開業された「ラ・ロシェル」までの道のり、日本人の好きなフレンチをいかに作られてきたか。「クラブ・デ・トラント」では、どのような勉強会をされていたのか。そしてこのコロナ禍の2021年に、初めて自らの名前をつけたレストラン「ラ・グランド・メソンHiroyukiSAKAI」を開店するという、血気盛んともいえる決意についてお聞きした。

3人の恩人が紡いだ「ラ・ロシェル」への道のり

マッキー牧元(以下、牧元):1980年に独立開業された「ラ・ロシェル」のお話の前に、26歳でシェフを勤められた「西洋膳所 ジョンカナヤ麻布」頃の様子をお聞かせください。日光金谷ホテル創業者のお孫さんである金谷鮮治氏との出会いのきっかけは?

坂井宏行(以下、坂井):出会ったのはある建設会社の方からの紹介でした。当時「西洋膳所 ジョンカナヤ麻布」の出店を計画されていて、お声がけをいただいたんです。金谷鮮治と出会ったことが、僕のターニングポイントです。その後小原流家元の小原豊雲さん、元東邦生命の太田清蔵さん、その3人の方々に、ちょうど10年周期で出会わせていただきました。その3人に出会っていなかったら、たぶん今はないですね。それほどに影響を受けた方々です。
1971年に「西洋膳所 ジョンカナヤ麻布」に入ったときは、シェフではなくスーシェフとして入りました。しかしオープンが迫っているのに、なかなかシェフが決まらない。実は向こうの作戦だったようで、過去の栄光を背負っているシェフより、これから色々なことにトライする図々しさがあるシェフ像があったようです。
金谷さんに出会ってなかったら、今はない。そういう意味で、本当に感謝しています。

西洋膳所ジョンカナヤ麻布時代の坂井シェフ

牧元:金谷氏が考えていたお店はどういったものだったのでしょうか。

坂井:常々「これからの西洋料理界はフランスでやっているような重い料理じゃだめだ。一度に多くの味を楽しめる、懐石料理風が一番日本人にマッチする」と言われていました。そこで、徹底的に懐石を勉強させられたんですよ。「吉兆」さんや「辻留」さんに行ってこいと言われました。
初めはフランス料理をやってきているのに、何故今さら懐石料理なんだって、抵抗がありました。「懐石風フランス料理」と言われることも当時は抵抗を感じましたね。
一方、日本の四季折々の味を出す懐石料理っていうのは素晴らしく、様々なことを学ばせていただきました。

牧元:開店当初はいかがでした?

坂井:最初は暇でした。なにしろ当時はコース料金が3万円でしたから、今だと6万円以上でしょう。料理の量も10品と多皿で提供していて、今では普通ですが、当時は非常に珍しかったですね。
金谷鮮治という人は、徹底的にこだわる人でした。室内装飾も素晴らしく、本物のローズウッドや本物のステンドグラスを使っていました。ステンドグラスの工房をフランスまで見に行きましたもん。これは中途半端なことはできないな、と覚悟を決めました。
はじめは「あいつがやっているのはフランス料理じゃない」と仲間たちからも業界からも批判されたし、料理雑誌からも散々書かれました。でも、誰が何と言おうと自分の信じていることをきちんと続けることが大事だと、自分でも勉強しながらやっていましたね。

牧元:なかなか厳しい時代もあったんですね。どういったきっかけで人気店に?

坂井:料理誌の編集長の菅沼淳江さんが来られたことがありました。料理を出し終わって挨拶に行くと、「若いシェフだね」って言われたんです。その後、料理雑誌に「これからのフランス料理は、日本の食文化を大事にしながら出すスタイルが良い、そういう面白いシェフがいる」という話を掲載してもらって、お客さんが増えだしました。
隣にバーを併設して、食事の後にバーで楽しめるという金井鮮治の意図も当たって、著名人も来られるようになりました。

和の知識と経験が、日本人の好きなフレンチを生んだ

牧元:10品いうコースの組み立てだけでなく、食材に対しても色々チャレンジされていたとお聞きしました。

坂井:日本の食材では当時から試していましたね。ある時金谷鮮治から、コウナゴのペーストを作れって言われて。今みたいにロボクープがあるわけではないので、すり鉢でやって濾し、バターとクリームを混ぜて作ったりしました。
その時の料理で、「玉子の半熟うに詰めサバイヨンソース」という料理があります。フランスの「シェ・パクトール」というレストランで、卵にキャビアを入れ、トレイに入れてウォッカで火をつけながらパフォーマンスするものをやっていたのを見て開発しました。

あらかじめ半熟卵を作っておいて、ウニを入れてサバイユソースをのせ、お客さんの前で焼いて出したもので、今でもコースの一品として出しています。
また、フォアグラが入らない時期に、金谷鮮治にあん肝が美味しいんじゃないかと言われ、どうやって出せば良いか考えました。
きちんと血抜きして丁寧にマリネし、ラップで包んで蒸して。和食を勉強していないと、そういう発想は沸かないでしょうね。
レンコンも普通は縦に切るところを、横に切ってバスケットを作って。中にサラダやコンフィを入れ、見た目的にも華やかに、かつ美味しいという。和の知識と経験が、日本人に合うフランス料理を作る重要な要素だったと思います。

牧元:お店には約10年、いらっしゃったんですよね。

坂井:そうですね。お店が軌道に乗ったところで、金谷さんが引退して病に倒れられたんです。1977年、63歳で亡くなられました。悲しかったですね。

南青山「ラ・ロシェル」

牧元:その後、南青山の小原流会館で「ラ・ロシェル」を開業されました。実は、当時お伺いしたことがあるんです。今の妻と結婚前にデートの食事で。

坂井:本当ですか?もう、40年くらい前ですよね。「ラ・ロシェル」は1980年、38歳のときに、小原流家元の小原豊雲さんからお声がけいただき、小原流会館でスタートしました。

店名の「ラ・ロシェル」は、僕がカナヤにいた頃にフランスをずいぶん回り、ロシェルの港町を訪れたときにその美しさに感動したことがきっかけです。自分が店を出すときには、「ラ・ロシェル」って名前をつけようと決めていました。ロシェルを描いて有名になったベルナール・ビュッフェという画家がいて、彼には、青一色しか使わない青の時代というのがあるんです。1950年代に彼がすごい貧乏で、いろんな絵の具が買えなかったのですが、青の時代の絵がこれまたいいんですよ。偶然ロシェルで、レプリカを見つけて。額に入れ、今は「ラ・ロシェル山王」に飾ってあります。

当時は僕も大変な時期でした。オーナーになり、スタッフや家族を養い、家賃、材料費など支払いがある中で、いかに凝縮して美味しいものを出すかを、いつも考えていました。小原流の一族にずいぶんかわいがってもらったおかげで、だんだんと知れてきて。

「ラ・ロシェル」では、オードブル、魚料理、肉料理、デセールというスタイルに変えました。その頃は、オードブルに着目していましたね。料理はファッションだと思っているので、華やかに盛ってお客さんを楽しませ、美味しく召し上がっていただいて「また来るね」って言っていただく。

「ラ・ロシェル山王」料理の一例

当時は僕のような盛り付けや料理を出している人はいませんでした。あいつの料理はフランス料理じゃないって言われましたが、いくら良い料理を作っても、お客さんが入らないとダメじゃないですか。お客さんが入る料理を作り続けていく人は、誰がなんと言おうと「お客さんが評価してくれるなら」と、出し続けられる。これは信念がないとできないし、今の僕のスタイルになっているので、これまで続けてきて本当に良かったですね。
僕はフランスで修業したことはないですが、みんなと同じようにフランスで修業して同じようにやっていたら、また今とは変わっていたと思います。

牧元:その後、1989年に渋谷の東邦生命ビルに移転されました。お店もずっと広くなりましたね。

坂井:27坪の店からいきなり230坪ですからね。「西洋膳所 ジョンカナヤ麻布」時代のお客様で、当時東邦生命の社長だった太田清蔵さんから渋谷の東邦生命ビルの最上階でお店をやらないかと話をいただきました。
「とてもそんな金はない」と断ったのですが、「じゃあ、君が出せる条件を出せ」と。
「保証金は払えません。店も自分の言うとおりに改装して、家賃も歩合にしてくれ」というとんでもない条件を出しました。
「この条件だったら君はできるのか?じゃあ、やれ」って言われたときは足が震えました。まさか通ると思ってなかったのですが、店のスタッフが「とにかくやりましょう」と背中を押してくれたので、青山の店を売って、何とか支払いに回しました。

牧元:それほどのお店を始めるのに、人集めも大変だったのでは?

坂井:それまでは7~8人のスタッフでやってきましたから、人は足りないですよね。でも仲間たちが「おまえがやるんだったら、うちから1人よこすよ」って言ってくれて、人集めには苦労はしなかったんですよ。仲間たちに応援をいただいて、やるしかないと。

互いに切磋琢磨した、「クラブ・デ・トラント」の仲間たち

牧元:スタッフ集めで助けてくれた仲間というのが、「クラブ・デ・トラント」の方たちだったのでしょうか。

坂井:まさにそうですね。東京中のレストランの30代くらいのシェフたちが集まって、「クラブ・デ・トラント」という会を作ったんですよ。当時は「アピシウス」のシェフだった高橋徳男さんが会長で、月に一度、火曜日に「アピシウス」で勉強会をやっていました。我々料理人たちがこれから何を発信していくか、今どういう料理を作っているか、といった話をランチしながら話していましたね。

牧元:そうそうたるメンバーが集まって、本も出版されましたよね。

坂井:石鍋裕さん、熊谷喜八さん、井上旭さんなど、そうそうたる顔ぶれでした。僕以外は全員フランスで修業経験がありましたから、当時の思い出話や料理の傾向とか、フランスの話になるとついていけないときもありましたね。
「アピシウス」は北海道に牧場があって、そこで鹿や鴨を持ってきてさばいて出していました。当時は、トリュフやフォアグラなど、向こうと同じ食材を揃えるのが難しい時代だったので、貴重な食材を扱える機会でもありました。
また、「アピシウス」はよくロブション氏を呼んだりしていましたが、1人7万円のコースでも料理人で埋まっていました。フランスに行った人たちと、フランスに行けなかった人たちが意見交換しながら、士気を高め、仲間意識が充実していた時代でした。
高橋会長が全部仕切ってくれたのですが、彼が亡くなってから、集まる機会も減ってしまいました。

牧元:石鍋シェフと言えば、1990年代のテレビ番組「料理の鉄人」で初代フレンチの鉄人として出演、そして坂井さんも2代目の鉄人として登場されましたね。

坂井:最初は断っていたんですが、仲間たちから「彼は懐石を勉強しているから、どんな食材でも扱えるよ」と薦められたようです。当時のテレビプロデューサーが、お店が終わって外に出ると毎晩いて、口説かれました。ある日、僕が出張に行っている間に赤いキッチンコートも作られちゃって。
お店のスタッフにも「ムッシュ、店はみんなでがんばりますから」と言われ、出演していた石鍋くんからも応援されて。2、3回だったらと引き受けたら、6年半も続きましたからね。

牧元:あの番組を見て料理人を志した方は多いですからね。

コロナ禍だからこそのチャレンジ。「ラ・グランド・メゾン HiroyukiSAKAI」開業へ

牧元:2021年に「ラ・グランド・メゾン HiroyukiSAKAI」を開業されました。店名に初めてご自身の名前を入れていますが、どういった思いで始められたのでしょうか。

坂井:正直、こういうコロナの時期でなければ、やらなかっただろうと思います。とにかくチャンスかもしれないし、みんなも俺が元気なうちはやるって言ってくれて。自分が生きているうちにチャレンジできるのなら、という気持ちが強かったですね。
店名に自分の名前があるのは、これはいつのまにか付けられた、っていう。でも「Hiroyuki SAKAI」というのを冠にしていますから、とにかく自分ができる範囲で挑戦して行こうとしています。

メニューは今1つ、ディナーで9,200円ですが、10月からはリーズナブルなメニューを増やして、若いカップルやマダムにも訪れやすいようにしていきたいなと思案中です。
この店の周りには緑が沢山あるのですが、秋になると紅葉が綺麗で、お食事にいらっしゃる方もぜひ、店内からの四季も味わって欲しいと思っています。絵画も、僕の持ち物を持ってきて、内装も少しずつ華やかにして、居心地の良い空間を作りたいですね。

牧元:精力的に活動されるシェフから、若手シェフへメッセージをいただけますか。

「ラ・グランド・メゾン HiroyukiSAKAI」料理長・渡辺誠治と。

坂井:最近は、色んなところで若い人に会っています。いつまでも俺が俺が、っていう時代じゃないですから。スタッフも結構育ってきているので、チャンスがあればどんどんやらせています。
若い料理人に何か言うとしたら、時代を的確に見ながら、この先はどういうものが合うのか、見極めながら攻めていかないといけない。
また、現実的に原価計算をしっかりやりましょうということですね。原価計算、仕入れ管理、在庫管理ができないとダメです。道場さんがよく言っていますよね。大根の皮をむいたらそれをきんぴらにして、アテに出せと。食材はなんでも手に入る時代、美味しいものをお客様に提供し続けるために、シビアな感覚も理解していってほしいなと思いますね。

【プロフィール】
坂井宏行 
1942年生まれ、鹿児島県出身。17歳でフランス料理の修業を始め、19歳で単身オーストラリアに渡り1年半の修行の後、帰国。都内の有名レストランでの修業を経た後、1980年、38歳で独立し、南青山にフランス料理店「ラ・ロシェル」をオープン。以来、日本のフランス料理の第一人者として幅広い分野で活躍を続け、2005年にはフランス共和国より農事功労章シュヴァリエ勲章を受勲。2021年7月、明治神宮前に「ラ・グランド・メゾン HiroyukiSAKAI」をオープン。

マッキー牧元
国内、海外を問わず、年間700食ほど旺盛に食べ歩き、雑誌、テレビ、ラジオなどで妥協なき食情報を発信。近著に「超一流サッポロ一番の作り方」(ぴあ)がある。

【編集後記】

厨房の壁には、「クラブ・デ・トラント」のメンバーが一堂に会した写真が貼ってあり、坂井シェフの「人との巡り逢い」を大事にされる姿が垣間見えました。コロナ禍の今だからこそ、ますます精力的に挑戦を続ける理由。それは和の食材と洋のテクニックを融合させ、時代が求める料理を作り続けた料理人としての、食に対する志にも感じます。

フランス料理

ラ・グランド・メゾンHiroyukiSAKAI

東京メトロ千代田線・副都心線 明治神宮前(原宿)駅 5番出口より徒歩5分

8,000円〜9,999円

Airi Ishikawa

一休コンシェルジュ メディア事業部長。高級旅館のお取り寄せが最近のマイブーム。インタビューを中心に、地産地消や、生産者に近い距離で食材と向き合う極みのシェフがいる店をご紹介します。
【MY CHOICE】
・最近行ったお店:祇園 さゝ木 / Crony / のぐち 継 / 津の守坂 小柴
・好きなお店:ベージュ・アラン・デュカス / ブラマソーレ / 美伶
・自分の会食で使うなら:鮨きむら / 中国飯店 富麗華 / エディション・コウジ シモムラ
・得意ジャンル:フレンチ / バー
・好きな食材: 魚卵

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